見える縁と見えない縁の導き2023年01月13日


今日、坐禅会のお集まりの方は、座禅に興味があった、坐禅を体験してみよう、あるいは、月一回「惰性」で来ている方、いろんな方が座禅ということで「荘厳寺」にお集まりになっています。これを仏教では「縁」と言います。「因縁」とも言います。
「なかなか、いい縁に巡り会えない」
「いい縁をいただいて、ありがたかった」
「怖い人に因縁をつけられた」
「何か悪い因縁でもついているかな」等、日常の中に「いい縁」「悪い縁」と「良い」と「悪」の2つに分けて使うことが多いと思います。
しかし、もともとの仏教語では、そのような意味は、ありません。そもそも、因縁に「良い」も「悪い」もないのです。
現代語で「因縁」をわかりやすく言い換えれば「導き」ということになります。今日、ここにお集まりの方は、「坐禅」という導きがあったからです。これが、今日のご縁です。出会いです。このご縁には「目に見える導き」と「見えない導き」があります。見える導きは、実際に見たことのある方です。話をしたことのある方です。これに対して「見えない導き」は今日ここであった方のご両親、兄弟、近所の方、直接話をしたことのない方で、いろいろ話をしていると話題に出てくる方が、「見えない導き」です。導きの理由は、人それぞれです。しかし、この導きを結ぶことができたので、みなさんがここに集まることができたのだと思います。「しばらくぶりに参加しましたね」「お元気でしたか?」とこんな会話ができるのも縁と縁との出会いのおかげです。私たちは、こんな無限で無数の導きの世界の中で生きています。これが仏教の説く、不思議な縁の世界です。「導き」という「縁」の働きの中で生かされています。人間だけでは、ありません。動物も植物も同じすべてがこの縁の中にあります。私たちが動いているのではなく、縁だけが動いています。動かないところへ動かしてくれるのが縁です。
当然、縁には、結ばれる縁と結ばれない縁もあります。結ばれたと思っても切れることもあります。切ったほうが、いい縁もあるかもしれません。
縁は無数にありますが、結ばれる縁にも限りがあります。従って、自分の目の前にある縁を一つ一つ大切にしていく必要があります。この姿勢が仏教の生き方です。縁を活かすということです。

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