宗繁和尚命日 ― 2023年01月18日
今日は、宗繁和尚の祥月命日です。昭和54年に亡くなられました。
きょうよう きょういく ちょきん ― 2023年01月18日
2022年日本の平均寿命、女性は、87歳。男性は81歳という統計があり、人生100年時代に突入してきました。2人に1人は、90歳まで4人に1人が95歳まで生きるようになっています(厚生労働省発表)長生きをするといってもいろんな生き方があります。いまだかつてなく、長い老後を幸せな生活をするためにはどんなことをすればよろしいのでしょうか?健康的に生きるために意識したいことが「きょうよう・きょういく・ちょきん」です。「きょういく」と「きょうよう」は、以前にもお話したことがあると思いますが、今回はひとつ追加して。「きょうよう・きょういく・ちょきん」は「教養・教育・貯金」ではありません。確かに「貯金」というお金は、生きる上で必要ですが、健康のための者ではありません「きょうよう」とは「今日、する用事」のことで、「きょういく」とは「今日行くところ」そして「ちょきん」とは「筋力(きんりょく)を貯(た)めること」です。これからの時代は、おひとり様社会です。夫婦で過ごしているときはよろしいですが、どちらかが先に旅立った時、一人で生きていかなければいけなくなってきます。だからこそ「今日する用事」「今日行く所」があれば、外へ出かけるでしょう。毎日、外に出かけるのは、体力的にも無理かもしれません。だからこそ、自立して歩くための筋力が大事になります。「きょうよう・きょういく」の為の「ちょきん」です。休む前に「明日は、何をしようか」と考え、朝になると、その計画で体を動かすことを心掛けることです。家事・買い物・病院・お友達との食事等です。その中にお寺参りをお勧めします。お近くの方は、散歩のついでにお寺に行く。荘嚴寺までは、坂を上がって、階段を上がらないといけないのですが、ちょっと、しんどいなと思われたら、寺の下まででも大丈夫です。本堂を見上げて、お参りください。遠方の方は、バスや市営渡船を使って、お寺参りをするのもよいでしょう。筋力が衰え始めてしまってからでは遅いです。子供さんやお孫さんを連れてお参りされてもいいかもしれません。「おばあちゃん(お母さん)とおまいりに行った」という思い出が、子供さんやお孫さんの中に記憶として残っていくのではないかと思うのです。という私も今年で69歳になります。老境(ろうきょう)の自覚はありませんが、視力も体力、記憶力も低下気味です。老いは確実に進んでいます。少しでも、老いを先延ばしにするには「きょうよう・きょういく・ちょきん」この3つの言葉で毎日の張り合いがある生活を実践していきたいものです。
信心を養う ― 2023年01月18日
見えない世界のことや神仏のことを信じる。あるいは、大切に思うことで、心の眼が更に深くなり、美しい世界が見えてくる。
禅では、心の内に仏心(ぶっしん)があると教えている、その心の内にある仏心の眼で世の中を見たとき、苦しみの多い世界が、慈悲があふれる美しい世界に見えてくる。神仏の世界を見、神仏のみ心を知り、それを言葉に現して伝える。これが世に出た偉大なる預言者でした。未来を予言するのではなく、神仏の言葉を預かった人々です。そんな人々の言葉を信じ、いただいて、その言葉の中に神仏のみ心を知り、その心の目でこの世界を見ていくのです。そうすると、苦難の中にも意味があり、守られている自分自身を知ることが出来る。信仰のない人が苦難に遭わば、「なぜ私ばかり」「あの人が悪いからだ」「この人がいけないからだ」と自分の運命を恨むことになる。恨みは、心の、窓を歪め、くもらせます。ですから、真実の世界は、決して見えてきません。昔の人は、こう言っています。「沙石集(しゃせきしゅう)」という書物に出てくる言葉があります。鎌倉時代に活躍した臨済宗のお坊さんで無住(むじゅう)という和尚様です。【仏や神に仕えて危難(きなん)(危うい目にあうことにも)災難(不意に起こる災い)にも見舞われた時に神や仏を恨んではならない。「どういう方便だろうが、また自らの業力(ごうりき)によるものだろうか。仏の力も業力には、勝てないから、佛の方便もどうにもできないのだろう自分の真の信心をもたず、修行がたりないのだろうか。】
と考え、我が身を戒め、我が心を励まさなければならない。
訳(わけ)もなく他人を嫉み(そねみ)、仏法を疑い、仏を恨んではならないと説いています。
訳すると「苦難にあった時には、何か意味があるのだろうか。私に何を神仏は気づかせようとしているのか、そう思いなさい。前世からの心の傾向性が苦難を呼び寄せているかもしれないから、間違った頑(かたく)な心を柔らかにして、
信心を深め、神仏を恨むことなく、佛の教えによって、心をただし、苦難を乗り越えていきなさい。決して、神仏を恨んではなりません」ということになると思います。こんな教えをいただいて、心を養っていくこと、心の眼も豊かなものが見えるようになります。苦難にも意味を見出し、幸せであれば、神仏への謙虚で感謝の想いを深めていくことができます。
神仏の世界は、慈悲の世界ですから、その世界は、きっと、宝石がキラキラと輝くような美しい世界でしょう。それは、私たちの内にある佛の心と見えない世界に確かにある佛の世界が感応してあって、そう見えます。
信心の力
神や仏を信じ 大切にすると
世界がきらきら光って見えてくる
ご先祖様がありがたく見え、手を合わすことが美しい姿に見え
祈りの姿が尊く見えてくる。
苦難に意味を見出し、くじけない勇気が出てくる。
幸せや成功を周りの人のおかげであると思えてくる
信心を深め 心の眼を養っていくことだ
禅では、心の内に仏心(ぶっしん)があると教えている、その心の内にある仏心の眼で世の中を見たとき、苦しみの多い世界が、慈悲があふれる美しい世界に見えてくる。神仏の世界を見、神仏のみ心を知り、それを言葉に現して伝える。これが世に出た偉大なる預言者でした。未来を予言するのではなく、神仏の言葉を預かった人々です。そんな人々の言葉を信じ、いただいて、その言葉の中に神仏のみ心を知り、その心の目でこの世界を見ていくのです。そうすると、苦難の中にも意味があり、守られている自分自身を知ることが出来る。信仰のない人が苦難に遭わば、「なぜ私ばかり」「あの人が悪いからだ」「この人がいけないからだ」と自分の運命を恨むことになる。恨みは、心の、窓を歪め、くもらせます。ですから、真実の世界は、決して見えてきません。昔の人は、こう言っています。「沙石集(しゃせきしゅう)」という書物に出てくる言葉があります。鎌倉時代に活躍した臨済宗のお坊さんで無住(むじゅう)という和尚様です。【仏や神に仕えて危難(きなん)(危うい目にあうことにも)災難(不意に起こる災い)にも見舞われた時に神や仏を恨んではならない。「どういう方便だろうが、また自らの業力(ごうりき)によるものだろうか。仏の力も業力には、勝てないから、佛の方便もどうにもできないのだろう自分の真の信心をもたず、修行がたりないのだろうか。】
と考え、我が身を戒め、我が心を励まさなければならない。
訳(わけ)もなく他人を嫉み(そねみ)、仏法を疑い、仏を恨んではならないと説いています。
訳すると「苦難にあった時には、何か意味があるのだろうか。私に何を神仏は気づかせようとしているのか、そう思いなさい。前世からの心の傾向性が苦難を呼び寄せているかもしれないから、間違った頑(かたく)な心を柔らかにして、
信心を深め、神仏を恨むことなく、佛の教えによって、心をただし、苦難を乗り越えていきなさい。決して、神仏を恨んではなりません」ということになると思います。こんな教えをいただいて、心を養っていくこと、心の眼も豊かなものが見えるようになります。苦難にも意味を見出し、幸せであれば、神仏への謙虚で感謝の想いを深めていくことができます。
神仏の世界は、慈悲の世界ですから、その世界は、きっと、宝石がキラキラと輝くような美しい世界でしょう。それは、私たちの内にある佛の心と見えない世界に確かにある佛の世界が感応してあって、そう見えます。
信心の力
神や仏を信じ 大切にすると
世界がきらきら光って見えてくる
ご先祖様がありがたく見え、手を合わすことが美しい姿に見え
祈りの姿が尊く見えてくる。
苦難に意味を見出し、くじけない勇気が出てくる。
幸せや成功を周りの人のおかげであると思えてくる
信心を深め 心の眼を養っていくことだ
見える縁と見えない縁の導き ― 2023年01月13日
今日、坐禅会のお集まりの方は、座禅に興味があった、坐禅を体験してみよう、あるいは、月一回「惰性」で来ている方、いろんな方が座禅ということで「荘厳寺」にお集まりになっています。これを仏教では「縁」と言います。「因縁」とも言います。
「なかなか、いい縁に巡り会えない」
「いい縁をいただいて、ありがたかった」
「怖い人に因縁をつけられた」
「何か悪い因縁でもついているかな」等、日常の中に「いい縁」「悪い縁」と「良い」と「悪」の2つに分けて使うことが多いと思います。
しかし、もともとの仏教語では、そのような意味は、ありません。そもそも、因縁に「良い」も「悪い」もないのです。
現代語で「因縁」をわかりやすく言い換えれば「導き」ということになります。今日、ここにお集まりの方は、「坐禅」という導きがあったからです。これが、今日のご縁です。出会いです。このご縁には「目に見える導き」と「見えない導き」があります。見える導きは、実際に見たことのある方です。話をしたことのある方です。これに対して「見えない導き」は今日ここであった方のご両親、兄弟、近所の方、直接話をしたことのない方で、いろいろ話をしていると話題に出てくる方が、「見えない導き」です。導きの理由は、人それぞれです。しかし、この導きを結ぶことができたので、みなさんがここに集まることができたのだと思います。「しばらくぶりに参加しましたね」「お元気でしたか?」とこんな会話ができるのも縁と縁との出会いのおかげです。私たちは、こんな無限で無数の導きの世界の中で生きています。これが仏教の説く、不思議な縁の世界です。「導き」という「縁」の働きの中で生かされています。人間だけでは、ありません。動物も植物も同じすべてがこの縁の中にあります。私たちが動いているのではなく、縁だけが動いています。動かないところへ動かしてくれるのが縁です。
当然、縁には、結ばれる縁と結ばれない縁もあります。結ばれたと思っても切れることもあります。切ったほうが、いい縁もあるかもしれません。
縁は無数にありますが、結ばれる縁にも限りがあります。従って、自分の目の前にある縁を一つ一つ大切にしていく必要があります。この姿勢が仏教の生き方です。縁を活かすということです。
ぬくもりを感じる力 ― 2023年01月12日
[ぬくもり]を感じ取る力
「ぬくもり」は人の心の内にあるやさしさや、思いやり、慈しみ、細やかな気遣いなど、その「ぬくもり」をかんじた時、私たちは幸せを思い、心に清々しさを思う。
手紙やハガキはパソコンなどを使った活字が多いので手書きの文章のほうが温かみを感じ取ることができる。
この「ぬくもり」はどんなものにも宿る力がある。
どんな粗末なプレゼントでも、そこに相手を思う「ぬくもり」を込めると、そのプレゼントがとても大切な宝物になる。人のぬくもりばかりでなく、人の思いが染み込んだ「物」を介して、お互いの思いを感じとつっている。物ばかりでなく、優しい言葉にも、笑顔の中にも、あるいは互いが交わした握手の手の中にも、自分の「ぬくもり」という思いを宿すと、その思いが相手に通じていき、その「ぬくもり」を感じとっていく力を育てていくと、相手を思う気持ちが自ずと養われていくような気がします。
お寺さんに行くと、玄関の石畳に水が打ってあります。この水を打つというのは、大切なお客様が来る時の最高のおもてなしと言えます。清浄にするわけです。そこにお寺さんの「ぬくもり」を感じ、水を打った石畳にも、ぬくもりの思いが宿る。玄関には赤い毛氈がひいていて、そこのお寺さんが丁寧にお頭を下げて迎えてくれる。赤い毛氈もお客様を迎えるおもてなしなのです。座敷に通されると、床の間に禅僧の書いた軸が掛けてあり、その横には花が活けられている。座布団の上に座るとお菓子と茶托に蓋付のお茶碗でお茶を出してくれる、そんな一つひとつの行為の中に「ぬくもり」を感じながら、お寺さんの接待を受けたことがあります。
食事の中にも「ぬくもり」を感じます。食卓に出されるものは何でも美味しくいただきますがコンビニのお弁当ももちろん美味しいですが、家で作ってくれる食事は不思議と飽きが来ません。布施は無償のおもいが大切なのですが、無償の思いで作った料理が、またひとを喜ばせる。きっと作ったひとの「ぬくもり」がその料理のなかに入っていて、それを感じ取りながら、いただくのも美味しいと思います。
「ぬくもり」を感じ取る為には
1、「ぬくもりの」世界があることを知って、その「ぬくもり」に気づくこと
2、この「ぬくもり」の心を自分自身、大切にして生きていこうと思うこと
心を込めると言う言葉があるように、自分の仕事にも、言葉にも、笑顔にも、優しい思いや良い思いを添える努力をしていくこと
「ぬくもり」の心を育てていった人が「ぬくもり」を相手に与えることができ、また相手の「ぬくもり」を感じ取って感謝出来る人になれると思う。
「ぬくもり」は人の心の内にあるやさしさや、思いやり、慈しみ、細やかな気遣いなど、その「ぬくもり」をかんじた時、私たちは幸せを思い、心に清々しさを思う。
手紙やハガキはパソコンなどを使った活字が多いので手書きの文章のほうが温かみを感じ取ることができる。
この「ぬくもり」はどんなものにも宿る力がある。
どんな粗末なプレゼントでも、そこに相手を思う「ぬくもり」を込めると、そのプレゼントがとても大切な宝物になる。人のぬくもりばかりでなく、人の思いが染み込んだ「物」を介して、お互いの思いを感じとつっている。物ばかりでなく、優しい言葉にも、笑顔の中にも、あるいは互いが交わした握手の手の中にも、自分の「ぬくもり」という思いを宿すと、その思いが相手に通じていき、その「ぬくもり」を感じとっていく力を育てていくと、相手を思う気持ちが自ずと養われていくような気がします。
お寺さんに行くと、玄関の石畳に水が打ってあります。この水を打つというのは、大切なお客様が来る時の最高のおもてなしと言えます。清浄にするわけです。そこにお寺さんの「ぬくもり」を感じ、水を打った石畳にも、ぬくもりの思いが宿る。玄関には赤い毛氈がひいていて、そこのお寺さんが丁寧にお頭を下げて迎えてくれる。赤い毛氈もお客様を迎えるおもてなしなのです。座敷に通されると、床の間に禅僧の書いた軸が掛けてあり、その横には花が活けられている。座布団の上に座るとお菓子と茶托に蓋付のお茶碗でお茶を出してくれる、そんな一つひとつの行為の中に「ぬくもり」を感じながら、お寺さんの接待を受けたことがあります。
食事の中にも「ぬくもり」を感じます。食卓に出されるものは何でも美味しくいただきますがコンビニのお弁当ももちろん美味しいですが、家で作ってくれる食事は不思議と飽きが来ません。布施は無償のおもいが大切なのですが、無償の思いで作った料理が、またひとを喜ばせる。きっと作ったひとの「ぬくもり」がその料理のなかに入っていて、それを感じ取りながら、いただくのも美味しいと思います。
「ぬくもり」を感じ取る為には
1、「ぬくもりの」世界があることを知って、その「ぬくもり」に気づくこと
2、この「ぬくもり」の心を自分自身、大切にして生きていこうと思うこと
心を込めると言う言葉があるように、自分の仕事にも、言葉にも、笑顔にも、優しい思いや良い思いを添える努力をしていくこと
「ぬくもり」の心を育てていった人が「ぬくもり」を相手に与えることができ、また相手の「ぬくもり」を感じ取って感謝出来る人になれると思う。
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