お盆説教 ― 2025年08月17日
今日は、暑い中、お集まりいただきありがとうございます。
暑い日が続いています。気分が悪くなったりした場合は、無理をせず、おっしゃってください。
ここにお集まりにいただいた皆様にご報告をさせていただきます。
まず、昨年の2月に動力を設け、4台のエアコンを設置しました。冷暖房完備になりました。それから、お寺下の土地を購入し、駐車場としてご利用ください。
いつもは、説教師さんにお話をしていただきますが、今日は、僭越ですが、私がお話をさせていただきます。よろしくお願いします。
さて、本日、皆様にお集まりしていただきましたのは、お盆法要です。
お盆法要とは、初盆を迎えられる方や、ご先祖様のお盆の供養をする法要です。
7月に配布いたしました、寺報荘嚴寺を読んでいただきましたか?
お盆の起源については、寺報 荘嚴寺に掲載しております。お釈迦様のお弟子である目連尊者のお話です。お釈迦様の弟子で、目連という修行僧がいました。自分の母親が死後どうなっているのかを神通力で死後の世界をのぞいてみると、そこには、餓鬼界に落ちた母の姿が、見えました。神通力で 持ってきた食べ物を母親の口に運ぼうとするのですが、それは、たちまち火となって燃え上がってしまうのでした。何とか母親を救うことはできないものかとお釈迦様に尋ねると、
「目連よ、お前の母は、生前、人に施すという事をしなかった。だから餓鬼道に落ちたのです。母の罪は非常に深く、お前一人の力では救う事はできない。お盆(8月15日)に修行僧が長い厳しい修行を終えるこの日に、全ての修行僧の徳をたたえ、清らかな食事を施しなさい。そうすれば修行僧たちは、御先祖や餓鬼で苦しんでいる者のために喜んで回向してくれるだろう。この功徳によってお前の母や餓鬼道で苦しむ多くの者は全て極楽に生まれ変わる事ができよう。」
これを聞いた目連尊者は、さっそくお盆に供養の大法要を行いました。
すると、お経の功徳によって、目連尊者の母親はついに天上界に生まれ変わる事ができたのです。これが盂蘭盆会のはじまりです。今日は、たくさんの和尚様方が法要に来てくださっています。亡き故人が天上界へ行けるよう、ご供養いたしましょう。
さて、今年、初盆を迎えられた家が、27軒あります。「故人を想うと故人は、生き返る」という言葉があります。死は、物体はないけれども、魂として、生き返るという意味です。
死は、2回あると聞いたことがあります。肉体が消滅したときとその人が忘れられた時です。私たちは、今、ここにこうして、生きているのは、千年、万年とつなぎゆく血縁のおかげですが、はるか、昔の事、実感はないと思いますが、今年、亡くなられて初盆となる故人は、1年前まで現実にここにいた方です。亡くなられた方は、どんな方だったですか?どのような人生を歩んで来られましたか?それぞれの人生を語ると100歳にしろ50歳にしても、とても尊いものです。故人も様々な人生があり、その人生に終止符をうちました。その別れは、とても、つらく、寂しいものでしょう。「なぜ、死んでしまったの?ではなく、今まで、出会えてありがとう。私に命を授けてくださってありがとう。あなたが、生きている間に私たちにくれたたくさんの笑顔に感謝します。」という想いでこれからも前に進んでいきましょう。今日で、お盆も終わりですが、亡き人、それは、ご先祖様になられる方々です。その方々に想いを馳せ、思い出してあげてください。「おばあちゃんと一緒にたべたもの、ご主人と一緒に行ったところ、おじいちゃんが話していたこと、父や母と過ごした日々、その何気ない日常を思い出してあげることで、故人は、すぐ、あなたのもとへ、やってきます。みんなが、仲良く、幸せにしている姿を見せてあげてください。そうすることが、きっと、あなたの中での励ましとなり、明日へと頑張れる力の源になると思います。
暑い日が続いています。気分が悪くなったりした場合は、無理をせず、おっしゃってください。
ここにお集まりにいただいた皆様にご報告をさせていただきます。
まず、昨年の2月に動力を設け、4台のエアコンを設置しました。冷暖房完備になりました。それから、お寺下の土地を購入し、駐車場としてご利用ください。
いつもは、説教師さんにお話をしていただきますが、今日は、僭越ですが、私がお話をさせていただきます。よろしくお願いします。
さて、本日、皆様にお集まりしていただきましたのは、お盆法要です。
お盆法要とは、初盆を迎えられる方や、ご先祖様のお盆の供養をする法要です。
7月に配布いたしました、寺報荘嚴寺を読んでいただきましたか?
お盆の起源については、寺報 荘嚴寺に掲載しております。お釈迦様のお弟子である目連尊者のお話です。お釈迦様の弟子で、目連という修行僧がいました。自分の母親が死後どうなっているのかを神通力で死後の世界をのぞいてみると、そこには、餓鬼界に落ちた母の姿が、見えました。神通力で 持ってきた食べ物を母親の口に運ぼうとするのですが、それは、たちまち火となって燃え上がってしまうのでした。何とか母親を救うことはできないものかとお釈迦様に尋ねると、
「目連よ、お前の母は、生前、人に施すという事をしなかった。だから餓鬼道に落ちたのです。母の罪は非常に深く、お前一人の力では救う事はできない。お盆(8月15日)に修行僧が長い厳しい修行を終えるこの日に、全ての修行僧の徳をたたえ、清らかな食事を施しなさい。そうすれば修行僧たちは、御先祖や餓鬼で苦しんでいる者のために喜んで回向してくれるだろう。この功徳によってお前の母や餓鬼道で苦しむ多くの者は全て極楽に生まれ変わる事ができよう。」
これを聞いた目連尊者は、さっそくお盆に供養の大法要を行いました。
すると、お経の功徳によって、目連尊者の母親はついに天上界に生まれ変わる事ができたのです。これが盂蘭盆会のはじまりです。今日は、たくさんの和尚様方が法要に来てくださっています。亡き故人が天上界へ行けるよう、ご供養いたしましょう。
さて、今年、初盆を迎えられた家が、27軒あります。「故人を想うと故人は、生き返る」という言葉があります。死は、物体はないけれども、魂として、生き返るという意味です。
死は、2回あると聞いたことがあります。肉体が消滅したときとその人が忘れられた時です。私たちは、今、ここにこうして、生きているのは、千年、万年とつなぎゆく血縁のおかげですが、はるか、昔の事、実感はないと思いますが、今年、亡くなられて初盆となる故人は、1年前まで現実にここにいた方です。亡くなられた方は、どんな方だったですか?どのような人生を歩んで来られましたか?それぞれの人生を語ると100歳にしろ50歳にしても、とても尊いものです。故人も様々な人生があり、その人生に終止符をうちました。その別れは、とても、つらく、寂しいものでしょう。「なぜ、死んでしまったの?ではなく、今まで、出会えてありがとう。私に命を授けてくださってありがとう。あなたが、生きている間に私たちにくれたたくさんの笑顔に感謝します。」という想いでこれからも前に進んでいきましょう。今日で、お盆も終わりですが、亡き人、それは、ご先祖様になられる方々です。その方々に想いを馳せ、思い出してあげてください。「おばあちゃんと一緒にたべたもの、ご主人と一緒に行ったところ、おじいちゃんが話していたこと、父や母と過ごした日々、その何気ない日常を思い出してあげることで、故人は、すぐ、あなたのもとへ、やってきます。みんなが、仲良く、幸せにしている姿を見せてあげてください。そうすることが、きっと、あなたの中での励ましとなり、明日へと頑張れる力の源になると思います。
高校生坐禅体験の時のお話 ― 2025年04月17日
こんばんわ
今日の坐禅体験はいかがでしたか?
坐禅を初めてした人は、どのくらいいますか?手をあげてみてください。
ありがとうございます。初めての体験というのは、とても、緊張してしまうものです。坐禅は、ただ、座って瞑想するものですが、坐禅を始めたときは、気持ちがざわついていることに気が付きましたか?それが、時間がたつにつれ、静寂した空気が、気になります。そして、自分の呼吸に気が付いてきます。皆さんは、当たり前に呼吸をしていますよね。呼吸をしなければ、苦しくなって、死んでしまいます。
坐禅は、そういったことに気が付くことを気付く、一つの手段です。静寂が進むと、少しの音でも耳に入ってきます。風の音とか、いつでもあることに気が付くことそれが、大切なのです。今日は、城東高校の先生方のご希望もあって、オリエンテーションに坐禅を取り入れていただきました。城東高校に入学して、これから、3年間たくさんの出会いがあることだと思います。人生には、出会いということが連続してあります。まずは、家族、そして、友人、恩師、恋人多くの出会いを繰り返していきます。生まれて、15年間ですが、様々な人と出会って、今ここにいることだと思います。そのことに感謝いたしましょう。
人だけでは、ありません。本、音楽、動物、海に空自分を取り巻くすべてが出会いの対象なのです。人を含め、自分たちを取り巻くすべての者が、ここしかないというタイミングで私たちを新たな世界へと誘ってくれています。人と出会って、人をしり、花と出会って花を知る。考えたら、出会いの数だけ、自分自身の発見にもつながっています。私たちは、本当の自分を知るためにあらゆる出会いを繰り返しているのかもしれません。禅の言葉に「啐啄同時」という教えがあります。「啐」とは、卵からひなが生まれてくるとき、ひなが卵の中から殻をつつくこと。「たく」は、親鳥が外から殻をつつくことです。禅宗の修行では、師匠と弟子の関係ですが、皆さんは、ご両親、先生、そして、友人、その他であってきた人たちのことです。その中で大切なことは、一方だけが強く主張しては、この「啐啄同時」なりえないということです。
相手の立場に立って、相手と心を同じくしてく、確かに皆さんは、学校では、先生、家庭では、ご両親と、年上の人たちとでは、心を同じくしていくというより、教えてもらう立場かもしれませんが、お互いを信頼しあうこと、それもここを同じくしていくことです。友人関係も自分の主張ばかりしては、一方通行です。相手のことを思うには、自分の考えだけにとらわれることなく、相手に思いを向けることをする。これが、「思いやり」ということです。新しく高校生活が始まりました。これまで以上にたくさんの出会いがあると思います。その中で相手のすべてを見通すことは、できませんが、想像力をもつ、自分が行った言動、行動が、相手に伝わっただろうか?と考える。
失敗することも大いにあります。それは、勉強ですから、考え続けることが大切だと思います。言葉についてもこれは、適切だ、不適切だと言葉を分けて、それをやめるのではなく、相手に思いやりを持って言葉を放つこと、また、逆に言われたことを寛容に受け止めることができると素晴らしいですね。
最後に六波羅蜜(ろくはらみつ)という言葉があります。これは、我慢するということを教えている言葉です。
我慢には、しなければならない我慢としてはいけない我慢があります。
体の痛みや不具合は、我慢せず、早めに診療を受けましょう。
他人からの攻撃や、嫌がらせについては、上手な避け方を考えるとか、誰かに相談して力を借りることも必要です。毎日の生活の中にある様々な苦しさ思うようにならないことについてですが、心配しすぎではいませんか?または、逃げては、いませんか?
正しい目標があって、それに向かって進んでゆくとき、その道筋にあるむずかしさ、くるしさに負けないようにしたいものです。特に自分自身で選んだ道だったら、なんとしてでも我慢して続けてゆかなければなりません
これからの高校生活、いろんなことがあると思いますが、楽しみながら、自分のやるべきことをしていくことに心がけ、頑張ってください。
今日の坐禅体験はいかがでしたか?
坐禅を初めてした人は、どのくらいいますか?手をあげてみてください。
ありがとうございます。初めての体験というのは、とても、緊張してしまうものです。坐禅は、ただ、座って瞑想するものですが、坐禅を始めたときは、気持ちがざわついていることに気が付きましたか?それが、時間がたつにつれ、静寂した空気が、気になります。そして、自分の呼吸に気が付いてきます。皆さんは、当たり前に呼吸をしていますよね。呼吸をしなければ、苦しくなって、死んでしまいます。
坐禅は、そういったことに気が付くことを気付く、一つの手段です。静寂が進むと、少しの音でも耳に入ってきます。風の音とか、いつでもあることに気が付くことそれが、大切なのです。今日は、城東高校の先生方のご希望もあって、オリエンテーションに坐禅を取り入れていただきました。城東高校に入学して、これから、3年間たくさんの出会いがあることだと思います。人生には、出会いということが連続してあります。まずは、家族、そして、友人、恩師、恋人多くの出会いを繰り返していきます。生まれて、15年間ですが、様々な人と出会って、今ここにいることだと思います。そのことに感謝いたしましょう。
人だけでは、ありません。本、音楽、動物、海に空自分を取り巻くすべてが出会いの対象なのです。人を含め、自分たちを取り巻くすべての者が、ここしかないというタイミングで私たちを新たな世界へと誘ってくれています。人と出会って、人をしり、花と出会って花を知る。考えたら、出会いの数だけ、自分自身の発見にもつながっています。私たちは、本当の自分を知るためにあらゆる出会いを繰り返しているのかもしれません。禅の言葉に「啐啄同時」という教えがあります。「啐」とは、卵からひなが生まれてくるとき、ひなが卵の中から殻をつつくこと。「たく」は、親鳥が外から殻をつつくことです。禅宗の修行では、師匠と弟子の関係ですが、皆さんは、ご両親、先生、そして、友人、その他であってきた人たちのことです。その中で大切なことは、一方だけが強く主張しては、この「啐啄同時」なりえないということです。
相手の立場に立って、相手と心を同じくしてく、確かに皆さんは、学校では、先生、家庭では、ご両親と、年上の人たちとでは、心を同じくしていくというより、教えてもらう立場かもしれませんが、お互いを信頼しあうこと、それもここを同じくしていくことです。友人関係も自分の主張ばかりしては、一方通行です。相手のことを思うには、自分の考えだけにとらわれることなく、相手に思いを向けることをする。これが、「思いやり」ということです。新しく高校生活が始まりました。これまで以上にたくさんの出会いがあると思います。その中で相手のすべてを見通すことは、できませんが、想像力をもつ、自分が行った言動、行動が、相手に伝わっただろうか?と考える。
失敗することも大いにあります。それは、勉強ですから、考え続けることが大切だと思います。言葉についてもこれは、適切だ、不適切だと言葉を分けて、それをやめるのではなく、相手に思いやりを持って言葉を放つこと、また、逆に言われたことを寛容に受け止めることができると素晴らしいですね。
最後に六波羅蜜(ろくはらみつ)という言葉があります。これは、我慢するということを教えている言葉です。
我慢には、しなければならない我慢としてはいけない我慢があります。
体の痛みや不具合は、我慢せず、早めに診療を受けましょう。
他人からの攻撃や、嫌がらせについては、上手な避け方を考えるとか、誰かに相談して力を借りることも必要です。毎日の生活の中にある様々な苦しさ思うようにならないことについてですが、心配しすぎではいませんか?または、逃げては、いませんか?
正しい目標があって、それに向かって進んでゆくとき、その道筋にあるむずかしさ、くるしさに負けないようにしたいものです。特に自分自身で選んだ道だったら、なんとしてでも我慢して続けてゆかなければなりません
これからの高校生活、いろんなことがあると思いますが、楽しみながら、自分のやるべきことをしていくことに心がけ、頑張ってください。
お盆法話 ― 2024年08月17日
日は、お暑い中、お集まりいただきありがとうございます。
7月から暑い日が続いています。
荘嚴寺では、本堂以外冷房を入れていますので、暑いので、気分が悪くなったりした場合は、無理をせず、おっしゃってください。
いつもは、説教師さんにお話をしていただきますが、今日は、僭越ですが、私がお話をさせていただきます。お時間は、20分程を予定しています。よろしくお願いします。
さて、まず、今日、皆様にお集まりしていただきましたのは、お盆法要です。お盆法要は、初盆を迎えられる方や、ご先祖様のお盆供養です。お盆とは、サンスクリット語で「盂蘭盆会」という言葉から来ています。昔、お釈迦様の弟子の一人に目連尊者(もくれんそんじゃ)という人がおりました。
母親はお金に執着し他人に施しなどしない冷酷な人でした。
自分の母親の死後、神通力を得た目連尊者が、「お母さんは今どうしているだろう。」と思い、その力で死後の世界をのぞいてみると、そこには、餓鬼界に落ちた母の姿が、
神通力で 持ってきた食べ物を母親の口に運ぼうとするのですが、それは、たちまち火となって燃え上がってしまうのでした。何とか母親を救うことはできないものかとお釈迦様に尋ねると、
「目連よ、お前の母は、生前、人に施すという事をしなかった。だから餓鬼道に落ちたのです。母の罪は非常に深く、お前一人の力では救う事はできない。お盆(8月15日)に修行僧が長い厳しい修行を終えるこの日に、全ての修行僧の徳を讃え、清らかな食事を施しなさい。そうすれば修行僧たちは、御先祖や餓鬼で苦しんでいる者のために喜んで回向してくれるだろう。この功徳によってお前の母や餓鬼道で苦しむ多くの者は全て極楽に生まれ変わる事ができよう。」
これを聞いた目連尊者は、さっそくお盆に供養の大法要を行いました。
すると、そのお経の功徳によって、目連尊者の母親はついに天上界に生まれ変わる事ができたのです。これが盂蘭盆会のはじまりです。今日は、たくさんの和尚様方が法要に来てくださっています。亡き故人が天上界へ行けるよう、ご供養いたしましょう。
さて、寿命についてのお話をさせていただきます。今、平均寿命が男性は、81歳女性は、87歳だと言われていますが、これは、あくまでも平均したことで、それぞれの寿命は、異なります。NHKの深夜宅急便という深夜放送にて、作家の伊集院静さんが出演されていました。奥さんは、女優の夏目雅子さんで、白血病を患い肺炎で28歳でお亡くなりになりました。伊集院さんは、その死がどうしても受け入れられず、仕事もやる気をなくし、数年、暮らしていたそうです。「なぜ、きれいで、女優としての才能もあり、性格もよく、だれからも好かれていた雅子が死んでしまうんだ。こんな、理不尽なことがあるのかと毎日、悔やんでました。あるとき作家の先輩とこの胸の内を話した時、その方から、「それは、寿命だよ。君が悪いんじゃない。雅子さんが悪いんじゃない。寿命なんだよ」といわれ、その時、何か、つきものが取れたような感覚だった。」と話されていました。早くに亡くなる方もいれば、100歳を超えるまで生きられる。それは、すべて、寿命だということです。
寿命とは、ことほぐ命と書きます。ことほぐということは、声を出して喜ぶということです。まさしく、お祝いの言葉がことほぐです。なぜ死んだときに寿命というのかというと、死んで良かったねではなく、お父さん、お母さんのこどもでよかったね。あなたにであええてよかったねということの喜びが寿命という言葉になります。人生は、自分の命が無くなるまで、別れと出会いを繰り返して行きます。年齢を問わず、様々な人との出会い、それは、愛する者と離れなければならないというつらさでもあるのです。その言葉は、「愛別離苦」出会えば、別れなければならないという苦悩を私たちは、抱えて生きているのです。
初盆を迎えた故人も様々な人生があり、その人生に終止符をうちました。その別れは、とても、つらく、寂しいものでしょう。「なぜ、死んでしまったの?ではなく、今まで、出会えてありがとう。私に命を授けてくださってありがとう。あなたが、生きている間に私たちにくれたたくさんの笑顔に感謝します。」という想いでこれからも前に進んでいきましょう。本日は、寿命のお話と、愛別離苦(別れていく苦しみ)についてお話をさせていただきました。暑い中、拝聴ありがとうございます。
7月から暑い日が続いています。
荘嚴寺では、本堂以外冷房を入れていますので、暑いので、気分が悪くなったりした場合は、無理をせず、おっしゃってください。
いつもは、説教師さんにお話をしていただきますが、今日は、僭越ですが、私がお話をさせていただきます。お時間は、20分程を予定しています。よろしくお願いします。
さて、まず、今日、皆様にお集まりしていただきましたのは、お盆法要です。お盆法要は、初盆を迎えられる方や、ご先祖様のお盆供養です。お盆とは、サンスクリット語で「盂蘭盆会」という言葉から来ています。昔、お釈迦様の弟子の一人に目連尊者(もくれんそんじゃ)という人がおりました。
母親はお金に執着し他人に施しなどしない冷酷な人でした。
自分の母親の死後、神通力を得た目連尊者が、「お母さんは今どうしているだろう。」と思い、その力で死後の世界をのぞいてみると、そこには、餓鬼界に落ちた母の姿が、
神通力で 持ってきた食べ物を母親の口に運ぼうとするのですが、それは、たちまち火となって燃え上がってしまうのでした。何とか母親を救うことはできないものかとお釈迦様に尋ねると、
「目連よ、お前の母は、生前、人に施すという事をしなかった。だから餓鬼道に落ちたのです。母の罪は非常に深く、お前一人の力では救う事はできない。お盆(8月15日)に修行僧が長い厳しい修行を終えるこの日に、全ての修行僧の徳を讃え、清らかな食事を施しなさい。そうすれば修行僧たちは、御先祖や餓鬼で苦しんでいる者のために喜んで回向してくれるだろう。この功徳によってお前の母や餓鬼道で苦しむ多くの者は全て極楽に生まれ変わる事ができよう。」
これを聞いた目連尊者は、さっそくお盆に供養の大法要を行いました。
すると、そのお経の功徳によって、目連尊者の母親はついに天上界に生まれ変わる事ができたのです。これが盂蘭盆会のはじまりです。今日は、たくさんの和尚様方が法要に来てくださっています。亡き故人が天上界へ行けるよう、ご供養いたしましょう。
さて、寿命についてのお話をさせていただきます。今、平均寿命が男性は、81歳女性は、87歳だと言われていますが、これは、あくまでも平均したことで、それぞれの寿命は、異なります。NHKの深夜宅急便という深夜放送にて、作家の伊集院静さんが出演されていました。奥さんは、女優の夏目雅子さんで、白血病を患い肺炎で28歳でお亡くなりになりました。伊集院さんは、その死がどうしても受け入れられず、仕事もやる気をなくし、数年、暮らしていたそうです。「なぜ、きれいで、女優としての才能もあり、性格もよく、だれからも好かれていた雅子が死んでしまうんだ。こんな、理不尽なことがあるのかと毎日、悔やんでました。あるとき作家の先輩とこの胸の内を話した時、その方から、「それは、寿命だよ。君が悪いんじゃない。雅子さんが悪いんじゃない。寿命なんだよ」といわれ、その時、何か、つきものが取れたような感覚だった。」と話されていました。早くに亡くなる方もいれば、100歳を超えるまで生きられる。それは、すべて、寿命だということです。
寿命とは、ことほぐ命と書きます。ことほぐということは、声を出して喜ぶということです。まさしく、お祝いの言葉がことほぐです。なぜ死んだときに寿命というのかというと、死んで良かったねではなく、お父さん、お母さんのこどもでよかったね。あなたにであええてよかったねということの喜びが寿命という言葉になります。人生は、自分の命が無くなるまで、別れと出会いを繰り返して行きます。年齢を問わず、様々な人との出会い、それは、愛する者と離れなければならないというつらさでもあるのです。その言葉は、「愛別離苦」出会えば、別れなければならないという苦悩を私たちは、抱えて生きているのです。
初盆を迎えた故人も様々な人生があり、その人生に終止符をうちました。その別れは、とても、つらく、寂しいものでしょう。「なぜ、死んでしまったの?ではなく、今まで、出会えてありがとう。私に命を授けてくださってありがとう。あなたが、生きている間に私たちにくれたたくさんの笑顔に感謝します。」という想いでこれからも前に進んでいきましょう。本日は、寿命のお話と、愛別離苦(別れていく苦しみ)についてお話をさせていただきました。暑い中、拝聴ありがとうございます。
信心を養う ― 2023年01月18日
見えない世界のことや神仏のことを信じる。あるいは、大切に思うことで、心の眼が更に深くなり、美しい世界が見えてくる。
禅では、心の内に仏心(ぶっしん)があると教えている、その心の内にある仏心の眼で世の中を見たとき、苦しみの多い世界が、慈悲があふれる美しい世界に見えてくる。神仏の世界を見、神仏のみ心を知り、それを言葉に現して伝える。これが世に出た偉大なる預言者でした。未来を予言するのではなく、神仏の言葉を預かった人々です。そんな人々の言葉を信じ、いただいて、その言葉の中に神仏のみ心を知り、その心の目でこの世界を見ていくのです。そうすると、苦難の中にも意味があり、守られている自分自身を知ることが出来る。信仰のない人が苦難に遭わば、「なぜ私ばかり」「あの人が悪いからだ」「この人がいけないからだ」と自分の運命を恨むことになる。恨みは、心の、窓を歪め、くもらせます。ですから、真実の世界は、決して見えてきません。昔の人は、こう言っています。「沙石集(しゃせきしゅう)」という書物に出てくる言葉があります。鎌倉時代に活躍した臨済宗のお坊さんで無住(むじゅう)という和尚様です。【仏や神に仕えて危難(きなん)(危うい目にあうことにも)災難(不意に起こる災い)にも見舞われた時に神や仏を恨んではならない。「どういう方便だろうが、また自らの業力(ごうりき)によるものだろうか。仏の力も業力には、勝てないから、佛の方便もどうにもできないのだろう自分の真の信心をもたず、修行がたりないのだろうか。】
と考え、我が身を戒め、我が心を励まさなければならない。
訳(わけ)もなく他人を嫉み(そねみ)、仏法を疑い、仏を恨んではならないと説いています。
訳すると「苦難にあった時には、何か意味があるのだろうか。私に何を神仏は気づかせようとしているのか、そう思いなさい。前世からの心の傾向性が苦難を呼び寄せているかもしれないから、間違った頑(かたく)な心を柔らかにして、
信心を深め、神仏を恨むことなく、佛の教えによって、心をただし、苦難を乗り越えていきなさい。決して、神仏を恨んではなりません」ということになると思います。こんな教えをいただいて、心を養っていくこと、心の眼も豊かなものが見えるようになります。苦難にも意味を見出し、幸せであれば、神仏への謙虚で感謝の想いを深めていくことができます。
神仏の世界は、慈悲の世界ですから、その世界は、きっと、宝石がキラキラと輝くような美しい世界でしょう。それは、私たちの内にある佛の心と見えない世界に確かにある佛の世界が感応してあって、そう見えます。
信心の力
神や仏を信じ 大切にすると
世界がきらきら光って見えてくる
ご先祖様がありがたく見え、手を合わすことが美しい姿に見え
祈りの姿が尊く見えてくる。
苦難に意味を見出し、くじけない勇気が出てくる。
幸せや成功を周りの人のおかげであると思えてくる
信心を深め 心の眼を養っていくことだ
禅では、心の内に仏心(ぶっしん)があると教えている、その心の内にある仏心の眼で世の中を見たとき、苦しみの多い世界が、慈悲があふれる美しい世界に見えてくる。神仏の世界を見、神仏のみ心を知り、それを言葉に現して伝える。これが世に出た偉大なる預言者でした。未来を予言するのではなく、神仏の言葉を預かった人々です。そんな人々の言葉を信じ、いただいて、その言葉の中に神仏のみ心を知り、その心の目でこの世界を見ていくのです。そうすると、苦難の中にも意味があり、守られている自分自身を知ることが出来る。信仰のない人が苦難に遭わば、「なぜ私ばかり」「あの人が悪いからだ」「この人がいけないからだ」と自分の運命を恨むことになる。恨みは、心の、窓を歪め、くもらせます。ですから、真実の世界は、決して見えてきません。昔の人は、こう言っています。「沙石集(しゃせきしゅう)」という書物に出てくる言葉があります。鎌倉時代に活躍した臨済宗のお坊さんで無住(むじゅう)という和尚様です。【仏や神に仕えて危難(きなん)(危うい目にあうことにも)災難(不意に起こる災い)にも見舞われた時に神や仏を恨んではならない。「どういう方便だろうが、また自らの業力(ごうりき)によるものだろうか。仏の力も業力には、勝てないから、佛の方便もどうにもできないのだろう自分の真の信心をもたず、修行がたりないのだろうか。】
と考え、我が身を戒め、我が心を励まさなければならない。
訳(わけ)もなく他人を嫉み(そねみ)、仏法を疑い、仏を恨んではならないと説いています。
訳すると「苦難にあった時には、何か意味があるのだろうか。私に何を神仏は気づかせようとしているのか、そう思いなさい。前世からの心の傾向性が苦難を呼び寄せているかもしれないから、間違った頑(かたく)な心を柔らかにして、
信心を深め、神仏を恨むことなく、佛の教えによって、心をただし、苦難を乗り越えていきなさい。決して、神仏を恨んではなりません」ということになると思います。こんな教えをいただいて、心を養っていくこと、心の眼も豊かなものが見えるようになります。苦難にも意味を見出し、幸せであれば、神仏への謙虚で感謝の想いを深めていくことができます。
神仏の世界は、慈悲の世界ですから、その世界は、きっと、宝石がキラキラと輝くような美しい世界でしょう。それは、私たちの内にある佛の心と見えない世界に確かにある佛の世界が感応してあって、そう見えます。
信心の力
神や仏を信じ 大切にすると
世界がきらきら光って見えてくる
ご先祖様がありがたく見え、手を合わすことが美しい姿に見え
祈りの姿が尊く見えてくる。
苦難に意味を見出し、くじけない勇気が出てくる。
幸せや成功を周りの人のおかげであると思えてくる
信心を深め 心の眼を養っていくことだ
見える縁と見えない縁の導き ― 2023年01月13日
今日、坐禅会のお集まりの方は、座禅に興味があった、坐禅を体験してみよう、あるいは、月一回「惰性」で来ている方、いろんな方が座禅ということで「荘厳寺」にお集まりになっています。これを仏教では「縁」と言います。「因縁」とも言います。
「なかなか、いい縁に巡り会えない」
「いい縁をいただいて、ありがたかった」
「怖い人に因縁をつけられた」
「何か悪い因縁でもついているかな」等、日常の中に「いい縁」「悪い縁」と「良い」と「悪」の2つに分けて使うことが多いと思います。
しかし、もともとの仏教語では、そのような意味は、ありません。そもそも、因縁に「良い」も「悪い」もないのです。
現代語で「因縁」をわかりやすく言い換えれば「導き」ということになります。今日、ここにお集まりの方は、「坐禅」という導きがあったからです。これが、今日のご縁です。出会いです。このご縁には「目に見える導き」と「見えない導き」があります。見える導きは、実際に見たことのある方です。話をしたことのある方です。これに対して「見えない導き」は今日ここであった方のご両親、兄弟、近所の方、直接話をしたことのない方で、いろいろ話をしていると話題に出てくる方が、「見えない導き」です。導きの理由は、人それぞれです。しかし、この導きを結ぶことができたので、みなさんがここに集まることができたのだと思います。「しばらくぶりに参加しましたね」「お元気でしたか?」とこんな会話ができるのも縁と縁との出会いのおかげです。私たちは、こんな無限で無数の導きの世界の中で生きています。これが仏教の説く、不思議な縁の世界です。「導き」という「縁」の働きの中で生かされています。人間だけでは、ありません。動物も植物も同じすべてがこの縁の中にあります。私たちが動いているのではなく、縁だけが動いています。動かないところへ動かしてくれるのが縁です。
当然、縁には、結ばれる縁と結ばれない縁もあります。結ばれたと思っても切れることもあります。切ったほうが、いい縁もあるかもしれません。
縁は無数にありますが、結ばれる縁にも限りがあります。従って、自分の目の前にある縁を一つ一つ大切にしていく必要があります。この姿勢が仏教の生き方です。縁を活かすということです。
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