お盆法話 ― 2024年08月17日
日は、お暑い中、お集まりいただきありがとうございます。
7月から暑い日が続いています。
荘嚴寺では、本堂以外冷房を入れていますので、暑いので、気分が悪くなったりした場合は、無理をせず、おっしゃってください。
いつもは、説教師さんにお話をしていただきますが、今日は、僭越ですが、私がお話をさせていただきます。お時間は、20分程を予定しています。よろしくお願いします。
さて、まず、今日、皆様にお集まりしていただきましたのは、お盆法要です。お盆法要は、初盆を迎えられる方や、ご先祖様のお盆供養です。お盆とは、サンスクリット語で「盂蘭盆会」という言葉から来ています。昔、お釈迦様の弟子の一人に目連尊者(もくれんそんじゃ)という人がおりました。
母親はお金に執着し他人に施しなどしない冷酷な人でした。
自分の母親の死後、神通力を得た目連尊者が、「お母さんは今どうしているだろう。」と思い、その力で死後の世界をのぞいてみると、そこには、餓鬼界に落ちた母の姿が、
神通力で 持ってきた食べ物を母親の口に運ぼうとするのですが、それは、たちまち火となって燃え上がってしまうのでした。何とか母親を救うことはできないものかとお釈迦様に尋ねると、
「目連よ、お前の母は、生前、人に施すという事をしなかった。だから餓鬼道に落ちたのです。母の罪は非常に深く、お前一人の力では救う事はできない。お盆(8月15日)に修行僧が長い厳しい修行を終えるこの日に、全ての修行僧の徳を讃え、清らかな食事を施しなさい。そうすれば修行僧たちは、御先祖や餓鬼で苦しんでいる者のために喜んで回向してくれるだろう。この功徳によってお前の母や餓鬼道で苦しむ多くの者は全て極楽に生まれ変わる事ができよう。」
これを聞いた目連尊者は、さっそくお盆に供養の大法要を行いました。
すると、そのお経の功徳によって、目連尊者の母親はついに天上界に生まれ変わる事ができたのです。これが盂蘭盆会のはじまりです。今日は、たくさんの和尚様方が法要に来てくださっています。亡き故人が天上界へ行けるよう、ご供養いたしましょう。
さて、寿命についてのお話をさせていただきます。今、平均寿命が男性は、81歳女性は、87歳だと言われていますが、これは、あくまでも平均したことで、それぞれの寿命は、異なります。NHKの深夜宅急便という深夜放送にて、作家の伊集院静さんが出演されていました。奥さんは、女優の夏目雅子さんで、白血病を患い肺炎で28歳でお亡くなりになりました。伊集院さんは、その死がどうしても受け入れられず、仕事もやる気をなくし、数年、暮らしていたそうです。「なぜ、きれいで、女優としての才能もあり、性格もよく、だれからも好かれていた雅子が死んでしまうんだ。こんな、理不尽なことがあるのかと毎日、悔やんでました。あるとき作家の先輩とこの胸の内を話した時、その方から、「それは、寿命だよ。君が悪いんじゃない。雅子さんが悪いんじゃない。寿命なんだよ」といわれ、その時、何か、つきものが取れたような感覚だった。」と話されていました。早くに亡くなる方もいれば、100歳を超えるまで生きられる。それは、すべて、寿命だということです。
寿命とは、ことほぐ命と書きます。ことほぐということは、声を出して喜ぶということです。まさしく、お祝いの言葉がことほぐです。なぜ死んだときに寿命というのかというと、死んで良かったねではなく、お父さん、お母さんのこどもでよかったね。あなたにであええてよかったねということの喜びが寿命という言葉になります。人生は、自分の命が無くなるまで、別れと出会いを繰り返して行きます。年齢を問わず、様々な人との出会い、それは、愛する者と離れなければならないというつらさでもあるのです。その言葉は、「愛別離苦」出会えば、別れなければならないという苦悩を私たちは、抱えて生きているのです。
初盆を迎えた故人も様々な人生があり、その人生に終止符をうちました。その別れは、とても、つらく、寂しいものでしょう。「なぜ、死んでしまったの?ではなく、今まで、出会えてありがとう。私に命を授けてくださってありがとう。あなたが、生きている間に私たちにくれたたくさんの笑顔に感謝します。」という想いでこれからも前に進んでいきましょう。本日は、寿命のお話と、愛別離苦(別れていく苦しみ)についてお話をさせていただきました。暑い中、拝聴ありがとうございます。
7月から暑い日が続いています。
荘嚴寺では、本堂以外冷房を入れていますので、暑いので、気分が悪くなったりした場合は、無理をせず、おっしゃってください。
いつもは、説教師さんにお話をしていただきますが、今日は、僭越ですが、私がお話をさせていただきます。お時間は、20分程を予定しています。よろしくお願いします。
さて、まず、今日、皆様にお集まりしていただきましたのは、お盆法要です。お盆法要は、初盆を迎えられる方や、ご先祖様のお盆供養です。お盆とは、サンスクリット語で「盂蘭盆会」という言葉から来ています。昔、お釈迦様の弟子の一人に目連尊者(もくれんそんじゃ)という人がおりました。
母親はお金に執着し他人に施しなどしない冷酷な人でした。
自分の母親の死後、神通力を得た目連尊者が、「お母さんは今どうしているだろう。」と思い、その力で死後の世界をのぞいてみると、そこには、餓鬼界に落ちた母の姿が、
神通力で 持ってきた食べ物を母親の口に運ぼうとするのですが、それは、たちまち火となって燃え上がってしまうのでした。何とか母親を救うことはできないものかとお釈迦様に尋ねると、
「目連よ、お前の母は、生前、人に施すという事をしなかった。だから餓鬼道に落ちたのです。母の罪は非常に深く、お前一人の力では救う事はできない。お盆(8月15日)に修行僧が長い厳しい修行を終えるこの日に、全ての修行僧の徳を讃え、清らかな食事を施しなさい。そうすれば修行僧たちは、御先祖や餓鬼で苦しんでいる者のために喜んで回向してくれるだろう。この功徳によってお前の母や餓鬼道で苦しむ多くの者は全て極楽に生まれ変わる事ができよう。」
これを聞いた目連尊者は、さっそくお盆に供養の大法要を行いました。
すると、そのお経の功徳によって、目連尊者の母親はついに天上界に生まれ変わる事ができたのです。これが盂蘭盆会のはじまりです。今日は、たくさんの和尚様方が法要に来てくださっています。亡き故人が天上界へ行けるよう、ご供養いたしましょう。
さて、寿命についてのお話をさせていただきます。今、平均寿命が男性は、81歳女性は、87歳だと言われていますが、これは、あくまでも平均したことで、それぞれの寿命は、異なります。NHKの深夜宅急便という深夜放送にて、作家の伊集院静さんが出演されていました。奥さんは、女優の夏目雅子さんで、白血病を患い肺炎で28歳でお亡くなりになりました。伊集院さんは、その死がどうしても受け入れられず、仕事もやる気をなくし、数年、暮らしていたそうです。「なぜ、きれいで、女優としての才能もあり、性格もよく、だれからも好かれていた雅子が死んでしまうんだ。こんな、理不尽なことがあるのかと毎日、悔やんでました。あるとき作家の先輩とこの胸の内を話した時、その方から、「それは、寿命だよ。君が悪いんじゃない。雅子さんが悪いんじゃない。寿命なんだよ」といわれ、その時、何か、つきものが取れたような感覚だった。」と話されていました。早くに亡くなる方もいれば、100歳を超えるまで生きられる。それは、すべて、寿命だということです。
寿命とは、ことほぐ命と書きます。ことほぐということは、声を出して喜ぶということです。まさしく、お祝いの言葉がことほぐです。なぜ死んだときに寿命というのかというと、死んで良かったねではなく、お父さん、お母さんのこどもでよかったね。あなたにであええてよかったねということの喜びが寿命という言葉になります。人生は、自分の命が無くなるまで、別れと出会いを繰り返して行きます。年齢を問わず、様々な人との出会い、それは、愛する者と離れなければならないというつらさでもあるのです。その言葉は、「愛別離苦」出会えば、別れなければならないという苦悩を私たちは、抱えて生きているのです。
初盆を迎えた故人も様々な人生があり、その人生に終止符をうちました。その別れは、とても、つらく、寂しいものでしょう。「なぜ、死んでしまったの?ではなく、今まで、出会えてありがとう。私に命を授けてくださってありがとう。あなたが、生きている間に私たちにくれたたくさんの笑顔に感謝します。」という想いでこれからも前に進んでいきましょう。本日は、寿命のお話と、愛別離苦(別れていく苦しみ)についてお話をさせていただきました。暑い中、拝聴ありがとうございます。
信心を養う ― 2023年01月18日
見えない世界のことや神仏のことを信じる。あるいは、大切に思うことで、心の眼が更に深くなり、美しい世界が見えてくる。
禅では、心の内に仏心(ぶっしん)があると教えている、その心の内にある仏心の眼で世の中を見たとき、苦しみの多い世界が、慈悲があふれる美しい世界に見えてくる。神仏の世界を見、神仏のみ心を知り、それを言葉に現して伝える。これが世に出た偉大なる預言者でした。未来を予言するのではなく、神仏の言葉を預かった人々です。そんな人々の言葉を信じ、いただいて、その言葉の中に神仏のみ心を知り、その心の目でこの世界を見ていくのです。そうすると、苦難の中にも意味があり、守られている自分自身を知ることが出来る。信仰のない人が苦難に遭わば、「なぜ私ばかり」「あの人が悪いからだ」「この人がいけないからだ」と自分の運命を恨むことになる。恨みは、心の、窓を歪め、くもらせます。ですから、真実の世界は、決して見えてきません。昔の人は、こう言っています。「沙石集(しゃせきしゅう)」という書物に出てくる言葉があります。鎌倉時代に活躍した臨済宗のお坊さんで無住(むじゅう)という和尚様です。【仏や神に仕えて危難(きなん)(危うい目にあうことにも)災難(不意に起こる災い)にも見舞われた時に神や仏を恨んではならない。「どういう方便だろうが、また自らの業力(ごうりき)によるものだろうか。仏の力も業力には、勝てないから、佛の方便もどうにもできないのだろう自分の真の信心をもたず、修行がたりないのだろうか。】
と考え、我が身を戒め、我が心を励まさなければならない。
訳(わけ)もなく他人を嫉み(そねみ)、仏法を疑い、仏を恨んではならないと説いています。
訳すると「苦難にあった時には、何か意味があるのだろうか。私に何を神仏は気づかせようとしているのか、そう思いなさい。前世からの心の傾向性が苦難を呼び寄せているかもしれないから、間違った頑(かたく)な心を柔らかにして、
信心を深め、神仏を恨むことなく、佛の教えによって、心をただし、苦難を乗り越えていきなさい。決して、神仏を恨んではなりません」ということになると思います。こんな教えをいただいて、心を養っていくこと、心の眼も豊かなものが見えるようになります。苦難にも意味を見出し、幸せであれば、神仏への謙虚で感謝の想いを深めていくことができます。
神仏の世界は、慈悲の世界ですから、その世界は、きっと、宝石がキラキラと輝くような美しい世界でしょう。それは、私たちの内にある佛の心と見えない世界に確かにある佛の世界が感応してあって、そう見えます。
信心の力
神や仏を信じ 大切にすると
世界がきらきら光って見えてくる
ご先祖様がありがたく見え、手を合わすことが美しい姿に見え
祈りの姿が尊く見えてくる。
苦難に意味を見出し、くじけない勇気が出てくる。
幸せや成功を周りの人のおかげであると思えてくる
信心を深め 心の眼を養っていくことだ
禅では、心の内に仏心(ぶっしん)があると教えている、その心の内にある仏心の眼で世の中を見たとき、苦しみの多い世界が、慈悲があふれる美しい世界に見えてくる。神仏の世界を見、神仏のみ心を知り、それを言葉に現して伝える。これが世に出た偉大なる預言者でした。未来を予言するのではなく、神仏の言葉を預かった人々です。そんな人々の言葉を信じ、いただいて、その言葉の中に神仏のみ心を知り、その心の目でこの世界を見ていくのです。そうすると、苦難の中にも意味があり、守られている自分自身を知ることが出来る。信仰のない人が苦難に遭わば、「なぜ私ばかり」「あの人が悪いからだ」「この人がいけないからだ」と自分の運命を恨むことになる。恨みは、心の、窓を歪め、くもらせます。ですから、真実の世界は、決して見えてきません。昔の人は、こう言っています。「沙石集(しゃせきしゅう)」という書物に出てくる言葉があります。鎌倉時代に活躍した臨済宗のお坊さんで無住(むじゅう)という和尚様です。【仏や神に仕えて危難(きなん)(危うい目にあうことにも)災難(不意に起こる災い)にも見舞われた時に神や仏を恨んではならない。「どういう方便だろうが、また自らの業力(ごうりき)によるものだろうか。仏の力も業力には、勝てないから、佛の方便もどうにもできないのだろう自分の真の信心をもたず、修行がたりないのだろうか。】
と考え、我が身を戒め、我が心を励まさなければならない。
訳(わけ)もなく他人を嫉み(そねみ)、仏法を疑い、仏を恨んではならないと説いています。
訳すると「苦難にあった時には、何か意味があるのだろうか。私に何を神仏は気づかせようとしているのか、そう思いなさい。前世からの心の傾向性が苦難を呼び寄せているかもしれないから、間違った頑(かたく)な心を柔らかにして、
信心を深め、神仏を恨むことなく、佛の教えによって、心をただし、苦難を乗り越えていきなさい。決して、神仏を恨んではなりません」ということになると思います。こんな教えをいただいて、心を養っていくこと、心の眼も豊かなものが見えるようになります。苦難にも意味を見出し、幸せであれば、神仏への謙虚で感謝の想いを深めていくことができます。
神仏の世界は、慈悲の世界ですから、その世界は、きっと、宝石がキラキラと輝くような美しい世界でしょう。それは、私たちの内にある佛の心と見えない世界に確かにある佛の世界が感応してあって、そう見えます。
信心の力
神や仏を信じ 大切にすると
世界がきらきら光って見えてくる
ご先祖様がありがたく見え、手を合わすことが美しい姿に見え
祈りの姿が尊く見えてくる。
苦難に意味を見出し、くじけない勇気が出てくる。
幸せや成功を周りの人のおかげであると思えてくる
信心を深め 心の眼を養っていくことだ
見える縁と見えない縁の導き ― 2023年01月13日
今日、坐禅会のお集まりの方は、座禅に興味があった、坐禅を体験してみよう、あるいは、月一回「惰性」で来ている方、いろんな方が座禅ということで「荘厳寺」にお集まりになっています。これを仏教では「縁」と言います。「因縁」とも言います。
「なかなか、いい縁に巡り会えない」
「いい縁をいただいて、ありがたかった」
「怖い人に因縁をつけられた」
「何か悪い因縁でもついているかな」等、日常の中に「いい縁」「悪い縁」と「良い」と「悪」の2つに分けて使うことが多いと思います。
しかし、もともとの仏教語では、そのような意味は、ありません。そもそも、因縁に「良い」も「悪い」もないのです。
現代語で「因縁」をわかりやすく言い換えれば「導き」ということになります。今日、ここにお集まりの方は、「坐禅」という導きがあったからです。これが、今日のご縁です。出会いです。このご縁には「目に見える導き」と「見えない導き」があります。見える導きは、実際に見たことのある方です。話をしたことのある方です。これに対して「見えない導き」は今日ここであった方のご両親、兄弟、近所の方、直接話をしたことのない方で、いろいろ話をしていると話題に出てくる方が、「見えない導き」です。導きの理由は、人それぞれです。しかし、この導きを結ぶことができたので、みなさんがここに集まることができたのだと思います。「しばらくぶりに参加しましたね」「お元気でしたか?」とこんな会話ができるのも縁と縁との出会いのおかげです。私たちは、こんな無限で無数の導きの世界の中で生きています。これが仏教の説く、不思議な縁の世界です。「導き」という「縁」の働きの中で生かされています。人間だけでは、ありません。動物も植物も同じすべてがこの縁の中にあります。私たちが動いているのではなく、縁だけが動いています。動かないところへ動かしてくれるのが縁です。
当然、縁には、結ばれる縁と結ばれない縁もあります。結ばれたと思っても切れることもあります。切ったほうが、いい縁もあるかもしれません。
縁は無数にありますが、結ばれる縁にも限りがあります。従って、自分の目の前にある縁を一つ一つ大切にしていく必要があります。この姿勢が仏教の生き方です。縁を活かすということです。
ぬくもりを感じる力 ― 2023年01月12日
[ぬくもり]を感じ取る力
「ぬくもり」は人の心の内にあるやさしさや、思いやり、慈しみ、細やかな気遣いなど、その「ぬくもり」をかんじた時、私たちは幸せを思い、心に清々しさを思う。
手紙やハガキはパソコンなどを使った活字が多いので手書きの文章のほうが温かみを感じ取ることができる。
この「ぬくもり」はどんなものにも宿る力がある。
どんな粗末なプレゼントでも、そこに相手を思う「ぬくもり」を込めると、そのプレゼントがとても大切な宝物になる。人のぬくもりばかりでなく、人の思いが染み込んだ「物」を介して、お互いの思いを感じとつっている。物ばかりでなく、優しい言葉にも、笑顔の中にも、あるいは互いが交わした握手の手の中にも、自分の「ぬくもり」という思いを宿すと、その思いが相手に通じていき、その「ぬくもり」を感じとっていく力を育てていくと、相手を思う気持ちが自ずと養われていくような気がします。
お寺さんに行くと、玄関の石畳に水が打ってあります。この水を打つというのは、大切なお客様が来る時の最高のおもてなしと言えます。清浄にするわけです。そこにお寺さんの「ぬくもり」を感じ、水を打った石畳にも、ぬくもりの思いが宿る。玄関には赤い毛氈がひいていて、そこのお寺さんが丁寧にお頭を下げて迎えてくれる。赤い毛氈もお客様を迎えるおもてなしなのです。座敷に通されると、床の間に禅僧の書いた軸が掛けてあり、その横には花が活けられている。座布団の上に座るとお菓子と茶托に蓋付のお茶碗でお茶を出してくれる、そんな一つひとつの行為の中に「ぬくもり」を感じながら、お寺さんの接待を受けたことがあります。
食事の中にも「ぬくもり」を感じます。食卓に出されるものは何でも美味しくいただきますがコンビニのお弁当ももちろん美味しいですが、家で作ってくれる食事は不思議と飽きが来ません。布施は無償のおもいが大切なのですが、無償の思いで作った料理が、またひとを喜ばせる。きっと作ったひとの「ぬくもり」がその料理のなかに入っていて、それを感じ取りながら、いただくのも美味しいと思います。
「ぬくもり」を感じ取る為には
1、「ぬくもりの」世界があることを知って、その「ぬくもり」に気づくこと
2、この「ぬくもり」の心を自分自身、大切にして生きていこうと思うこと
心を込めると言う言葉があるように、自分の仕事にも、言葉にも、笑顔にも、優しい思いや良い思いを添える努力をしていくこと
「ぬくもり」の心を育てていった人が「ぬくもり」を相手に与えることができ、また相手の「ぬくもり」を感じ取って感謝出来る人になれると思う。
「ぬくもり」は人の心の内にあるやさしさや、思いやり、慈しみ、細やかな気遣いなど、その「ぬくもり」をかんじた時、私たちは幸せを思い、心に清々しさを思う。
手紙やハガキはパソコンなどを使った活字が多いので手書きの文章のほうが温かみを感じ取ることができる。
この「ぬくもり」はどんなものにも宿る力がある。
どんな粗末なプレゼントでも、そこに相手を思う「ぬくもり」を込めると、そのプレゼントがとても大切な宝物になる。人のぬくもりばかりでなく、人の思いが染み込んだ「物」を介して、お互いの思いを感じとつっている。物ばかりでなく、優しい言葉にも、笑顔の中にも、あるいは互いが交わした握手の手の中にも、自分の「ぬくもり」という思いを宿すと、その思いが相手に通じていき、その「ぬくもり」を感じとっていく力を育てていくと、相手を思う気持ちが自ずと養われていくような気がします。
お寺さんに行くと、玄関の石畳に水が打ってあります。この水を打つというのは、大切なお客様が来る時の最高のおもてなしと言えます。清浄にするわけです。そこにお寺さんの「ぬくもり」を感じ、水を打った石畳にも、ぬくもりの思いが宿る。玄関には赤い毛氈がひいていて、そこのお寺さんが丁寧にお頭を下げて迎えてくれる。赤い毛氈もお客様を迎えるおもてなしなのです。座敷に通されると、床の間に禅僧の書いた軸が掛けてあり、その横には花が活けられている。座布団の上に座るとお菓子と茶托に蓋付のお茶碗でお茶を出してくれる、そんな一つひとつの行為の中に「ぬくもり」を感じながら、お寺さんの接待を受けたことがあります。
食事の中にも「ぬくもり」を感じます。食卓に出されるものは何でも美味しくいただきますがコンビニのお弁当ももちろん美味しいですが、家で作ってくれる食事は不思議と飽きが来ません。布施は無償のおもいが大切なのですが、無償の思いで作った料理が、またひとを喜ばせる。きっと作ったひとの「ぬくもり」がその料理のなかに入っていて、それを感じ取りながら、いただくのも美味しいと思います。
「ぬくもり」を感じ取る為には
1、「ぬくもりの」世界があることを知って、その「ぬくもり」に気づくこと
2、この「ぬくもり」の心を自分自身、大切にして生きていこうと思うこと
心を込めると言う言葉があるように、自分の仕事にも、言葉にも、笑顔にも、優しい思いや良い思いを添える努力をしていくこと
「ぬくもり」の心を育てていった人が「ぬくもり」を相手に与えることができ、また相手の「ぬくもり」を感じ取って感謝出来る人になれると思う。
正月のうんちく ― 2023年01月12日
お正月の「うんちく」
●門松
家の門の前などに立てられる一対の松や竹のことで、松飾りとも言い、木のこずえに神が宿ると考えられたことから門松は年神様を家に迎え入れるための、依代「よりしろ。神の霊が寄り付くこと」という意味合いで、神様の目印になるように門前に飾る。
門松の竹の切口には斜めに切った「そぎ」と真横に切った「寸胴」がある。「そぎ」は徳川家康が始めたといわれています。 家康の唯一の負け戦で知られる「三方が原の戦い」の最中に、新年を迎えてた家康のもとに、武田信玄から「文:ふみ」が届いた。
その「文」には「松枯れて 竹たぐいなき あしたかな」と書かれていた。内容は松は家康「松平」の事でこれが滅んで、竹「武田」が安泰だと。もちろん家康は怒り心頭で「松枯れず 武田首無き あしたかな」と先に送られてきた「文」を利用して、信玄に送り返したそうです。松は枯れずに武田の首は、飛ぶという意味です。それでも怒りは治まらず近くにあった門松の竹を信玄に見立てて、「そぎ」落とした。家康が天下を取り、諸大名が竹をそぎ落としたのを、真似て全国に広がった。
また、門松を節を含めて、斜めに切ると「切口が笑顔に見える」ため「笑う門には福来る」という意味もある。
●松 竹 梅
松 一年中葉を落とさない松は永遠の命を象徴している。「神様が
宿る」とされている。
竹 2・3年で成長する竹は、真っすぐに育つ様が生命力を表している。嵐や強風にも負けない姿がとても印象的である。
梅 新春に咲き一年の始まりを意味している梅は、実を宿すことから縁起の良いものとされている。
松 竹 梅 の順番には松が平安時代。竹は室町時代。梅は江戸時代とその時代事に、縁起物になったことからである。
●正月飾りの飾る時期
正月飾りの飾る時期は一般的12月13日頃から30日までだが29日は9は「苦」に通じ縁起が悪いとされる。大晦日31日に飾ることは、「一夜飾り」と言われており、新年においでいただく年神様に対し、礼に欠けるとされるので30日までに飾り終えること
●正月飾りを外す日
地域によってまちまちで、年神様が家に滞在している1月7日の松の内まで飾り、その後、はずす、鏡もちについては、正月11日鏡開きの日まで飾る。
●しめ縄
「しめ縄」とは、もともと神域や聖域を表すもの結界の一種とした神道の神祭具、元々は、神社と同様、家にもしめ縄を張り巡らせていたのを簡略化したもの。
●お年玉
現在のお年玉は、お金が主流ですが、元々は、お餅でした。単なるお餅ではなく「魂」を象徴するもので単なるお餅ではなく。「魂」を象徴するもので生きる力、気力だと思って昔は、年の初めに年神様から新年の魂をわけていただく、つまり、毎年、一年分の力を授かると考えられた。新年の神様である「年神様」を家に迎えて、もてなし、見送るための行事です。年神様は、新しい年の幸福や恵みとともに私たちに魂をわけてくださると考えられている。
●鏡餅
年神様の依り代なので、家にいらした年神様は、鏡餅に依りつきます。すると鏡餅には年神様の「御魂」(みたま)が宿ります。この鏡餅の餅玉が年神様の「御霊」(みたま)であり、その年の魂となる「年魂」です。そして、年魂を表す餅玉を家長が家族に「御年魂」→「お年玉」として分け与えられました。これが、お年玉のルーツ。玉には、魂という意味がある。この餅玉を食べるための料理が「お雑煮」で餅を食べることで体を魂を取り込むことです。お雑煮には、必ずもちが入っており、お雑煮を食べないと正月を迎えた気がしないという感覚も間違っていない。
昔から「餅」は神様に捧げる神聖な食べ物とされている。
お祝い事や祭りには欠かせないものである。鏡餅という丸い形
は「人の魂を模している。」神事の鏡と同じことから、鏡餅と
呼ばれています。
「三種の神器」は鏡は「餅」に、オガタマに見立てたものが
「橙」に、剣には串柿を見立ている。
大 小二つ重ねた意味は「陰・陽 月・日」を表して、縁
が良いとされる。
●門松
家の門の前などに立てられる一対の松や竹のことで、松飾りとも言い、木のこずえに神が宿ると考えられたことから門松は年神様を家に迎え入れるための、依代「よりしろ。神の霊が寄り付くこと」という意味合いで、神様の目印になるように門前に飾る。
門松の竹の切口には斜めに切った「そぎ」と真横に切った「寸胴」がある。「そぎ」は徳川家康が始めたといわれています。 家康の唯一の負け戦で知られる「三方が原の戦い」の最中に、新年を迎えてた家康のもとに、武田信玄から「文:ふみ」が届いた。
その「文」には「松枯れて 竹たぐいなき あしたかな」と書かれていた。内容は松は家康「松平」の事でこれが滅んで、竹「武田」が安泰だと。もちろん家康は怒り心頭で「松枯れず 武田首無き あしたかな」と先に送られてきた「文」を利用して、信玄に送り返したそうです。松は枯れずに武田の首は、飛ぶという意味です。それでも怒りは治まらず近くにあった門松の竹を信玄に見立てて、「そぎ」落とした。家康が天下を取り、諸大名が竹をそぎ落としたのを、真似て全国に広がった。
また、門松を節を含めて、斜めに切ると「切口が笑顔に見える」ため「笑う門には福来る」という意味もある。
●松 竹 梅
松 一年中葉を落とさない松は永遠の命を象徴している。「神様が
宿る」とされている。
竹 2・3年で成長する竹は、真っすぐに育つ様が生命力を表している。嵐や強風にも負けない姿がとても印象的である。
梅 新春に咲き一年の始まりを意味している梅は、実を宿すことから縁起の良いものとされている。
松 竹 梅 の順番には松が平安時代。竹は室町時代。梅は江戸時代とその時代事に、縁起物になったことからである。
●正月飾りの飾る時期
正月飾りの飾る時期は一般的12月13日頃から30日までだが29日は9は「苦」に通じ縁起が悪いとされる。大晦日31日に飾ることは、「一夜飾り」と言われており、新年においでいただく年神様に対し、礼に欠けるとされるので30日までに飾り終えること
●正月飾りを外す日
地域によってまちまちで、年神様が家に滞在している1月7日の松の内まで飾り、その後、はずす、鏡もちについては、正月11日鏡開きの日まで飾る。
●しめ縄
「しめ縄」とは、もともと神域や聖域を表すもの結界の一種とした神道の神祭具、元々は、神社と同様、家にもしめ縄を張り巡らせていたのを簡略化したもの。
●お年玉
現在のお年玉は、お金が主流ですが、元々は、お餅でした。単なるお餅ではなく「魂」を象徴するもので単なるお餅ではなく。「魂」を象徴するもので生きる力、気力だと思って昔は、年の初めに年神様から新年の魂をわけていただく、つまり、毎年、一年分の力を授かると考えられた。新年の神様である「年神様」を家に迎えて、もてなし、見送るための行事です。年神様は、新しい年の幸福や恵みとともに私たちに魂をわけてくださると考えられている。
●鏡餅
年神様の依り代なので、家にいらした年神様は、鏡餅に依りつきます。すると鏡餅には年神様の「御魂」(みたま)が宿ります。この鏡餅の餅玉が年神様の「御霊」(みたま)であり、その年の魂となる「年魂」です。そして、年魂を表す餅玉を家長が家族に「御年魂」→「お年玉」として分け与えられました。これが、お年玉のルーツ。玉には、魂という意味がある。この餅玉を食べるための料理が「お雑煮」で餅を食べることで体を魂を取り込むことです。お雑煮には、必ずもちが入っており、お雑煮を食べないと正月を迎えた気がしないという感覚も間違っていない。
昔から「餅」は神様に捧げる神聖な食べ物とされている。
お祝い事や祭りには欠かせないものである。鏡餅という丸い形
は「人の魂を模している。」神事の鏡と同じことから、鏡餅と
呼ばれています。
「三種の神器」は鏡は「餅」に、オガタマに見立てたものが
「橙」に、剣には串柿を見立ている。
大 小二つ重ねた意味は「陰・陽 月・日」を表して、縁
が良いとされる。
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