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    <title>荘嚴寺ブログ　日々好日（ひびこうじつ）</title>
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    <pubDate>Fri, 17 Oct 2025 15:59:35 +0900</pubDate>
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      <title>秋のお彼岸のお話</title>
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      <pubDate>Tue, 23 Sep 2025 11:56:19 +0900</pubDate>
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      <description>９月初めに糟屋仏教会主催の研修会で沖縄に行ってきました。今年は、戦後８０年という節目になりました。今回は、渡嘉敷島という沖縄本土から1時間くらい船でかかる所にある島に行きました。この島に上陸したことで、沖縄戦が始まりました。私たち一行は、集団自決をした場所に行きました。そこは、村人が、村長や日本軍に従い山奥に逃げていきました。その時代の背景は、捕まることは、死を意味し、辱めを受けると教育されていました。村人は、逃げていったのですが、最終的には、ガマのなかで自決したという事件がありました。その所の前には、小川があり、村人たちの血で真っ赤に染まったそうです。その話を聞いたとき、自分は、映画とかドラマでしか、戦争の事は知らなかったけど、現場を見て、現実にこのようなことが80年前には、あったのだということを想像しただけでも怖かったです。そのあと、その様子を描いた美術館に行って、リアルな絵を見て、恐ろしくなりました。ましてや、その場所は、普天間基地とフェンスを挟んですぐの場所でした。戦後80年と言いますが、まだ、戦争が終わっていないのではないかと思いました。島民の方たちは、基地の中に先祖のお墓があります。お参りができないので、フェンス越しにお参りをしているそうです。あらためて、戦争というものは、いろんなものを奪っていくのだと痛感しました。皆様の中にも戦争を体験したご先祖様がおられると思います。戦争だけではなく、ご先祖様は、子孫のために様々なご苦労をされてきたと思います。今、ここに私たちがいることは、当たり前ではなく奇跡なのかもしれません。&#13;&lt;br&gt;
もう一つのお話ですが、西日本新聞の中に「坊さんのナムイ話」というコーナがあります。月に２回くらいのペースで掲載されているのですが、先日、「２３億円ヴァイオリン」というテーマで投稿されていました。内容は、有名なヴァイオリニストのジョシュア・ベルさんが野球帽をかぶって、変装し、２３億円のヴァイオリンで金曜日の朝のラッシュアワーにヴァイオリンのケースを開いて、バッハの名曲等6曲を演奏したそうです。彼は、３日前に行ったソロコンサートで会場を満員にし、チケット代は、１万円以上するようなヴァイオリニストです。彼の前を数千人の人が通り過ぎ立ち止まって聞いたのは、７人、ケースにお金を入れてくれたのは、２８人で総額３２ドル（５０００円）だったそうです。朝の通勤に一杯の人にとっては、ヴァイオリンの美しい音色も駅の雑踏と変わらない雑音だったのかもしれません。仏教では、この世界を作り出しているのは、私の心であると説きます。美しいものも、醜いものの私の心の認識によって生まれるとものです。そして、それは、様々な外からの刺激によって、起こり、往々にして、誤った認識を繰り返してしまいます。その誤った認識を煩悩といいます。この煩悩をコントロールすることは、なかなか、うまくいかないのが私たちだと投稿者はおっしゃっています。&#13;&lt;br&gt;
美しいものを美しいと感じることができたときは、多くのご縁によって生み出された素晴らしい時間なのでしょう。&lt;br&gt;
</description>
    </item>
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      <title>お盆説教</title>
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      <pubDate>Sun, 17 Aug 2025 15:53:43 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2025-10-17T15:54:56+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2025-10-17T15:54:56+09:00</dcterms:created>
      <description>今日は、暑い中、お集まりいただきありがとうございます。&#13;&lt;br&gt;
暑い日が続いています。気分が悪くなったりした場合は、無理をせず、おっしゃってください。&#13;&lt;br&gt;
ここにお集まりにいただいた皆様にご報告をさせていただきます。&#13;&lt;br&gt;
まず、昨年の2月に動力を設け、4台のエアコンを設置しました。冷暖房完備になりました。それから、お寺下の土地を購入し、駐車場としてご利用ください。&#13;&lt;br&gt;
いつもは、説教師さんにお話をしていただきますが、今日は、僭越ですが、私がお話をさせていただきます。よろしくお願いします。&#13;&lt;br&gt;
さて、本日、皆様にお集まりしていただきましたのは、お盆法要です。&#13;&lt;br&gt;
お盆法要とは、初盆を迎えられる方や、ご先祖様のお盆の供養をする法要です。&#13;&lt;br&gt;
７月に配布いたしました、寺報荘嚴寺を読んでいただきましたか？&#13;&lt;br&gt;
お盆の起源については、寺報　荘嚴寺に掲載しております。お釈迦様のお弟子である目連尊者のお話です。お釈迦様の弟子で、目連という修行僧がいました。自分の母親が死後どうなっているのかを神通力で死後の世界をのぞいてみると、そこには、餓鬼界に落ちた母の姿が、見えました。神通力で 持ってきた食べ物を母親の口に運ぼうとするのですが、それは、たちまち火となって燃え上がってしまうのでした。何とか母親を救うことはできないものかとお釈迦様に尋ねると、&#13;&lt;br&gt;
「目連よ、お前の母は、生前、人に施すという事をしなかった。だから餓鬼道に落ちたのです。母の罪は非常に深く、お前一人の力では救う事はできない。お盆（８月１５日）に修行僧が長い厳しい修行を終えるこの日に、全ての修行僧の徳をたたえ、清らかな食事を施しなさい。そうすれば修行僧たちは、御先祖や餓鬼で苦しんでいる者のために喜んで回向してくれるだろう。この功徳によってお前の母や餓鬼道で苦しむ多くの者は全て極楽に生まれ変わる事ができよう。」&#13;&lt;br&gt;
これを聞いた目連尊者は、さっそくお盆に供養の大法要を行いました。&#13;&lt;br&gt;
すると、お経の功徳によって、目連尊者の母親はついに天上界に生まれ変わる事ができたのです。これが盂蘭盆会のはじまりです。今日は、たくさんの和尚様方が法要に来てくださっています。亡き故人が天上界へ行けるよう、ご供養いたしましょう。&#13;&lt;br&gt;
さて、今年、初盆を迎えられた家が、27軒あります。「故人を想うと故人は、生き返る」という言葉があります。死は、物体はないけれども、魂として、生き返るという意味です。&#13;&lt;br&gt;
死は、2回あると聞いたことがあります。肉体が消滅したときとその人が忘れられた時です。私たちは、今、ここにこうして、生きているのは、千年、万年とつなぎゆく血縁のおかげですが、はるか、昔の事、実感はないと思いますが、今年、亡くなられて初盆となる故人は、１年前まで現実にここにいた方です。亡くなられた方は、どんな方だったですか？どのような人生を歩んで来られましたか？それぞれの人生を語ると１００歳にしろ５０歳にしても、とても尊いものです。故人も様々な人生があり、その人生に終止符をうちました。その別れは、とても、つらく、寂しいものでしょう。「なぜ、死んでしまったの？ではなく、今まで、出会えてありがとう。私に命を授けてくださってありがとう。あなたが、生きている間に私たちにくれたたくさんの笑顔に感謝します。」という想いでこれからも前に進んでいきましょう。今日で、お盆も終わりですが、亡き人、それは、ご先祖様になられる方々です。その方々に想いを馳せ、思い出してあげてください。「おばあちゃんと一緒にたべたもの、ご主人と一緒に行ったところ、おじいちゃんが話していたこと、父や母と過ごした日々、その何気ない日常を思い出してあげることで、故人は、すぐ、あなたのもとへ、やってきます。みんなが、仲良く、幸せにしている姿を見せてあげてください。そうすることが、きっと、あなたの中での励ましとなり、明日へと頑張れる力の源になると思います。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>法話</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>高校生坐禅体験の時のお話</title>
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      <pubDate>Thu, 17 Apr 2025 20:00:15 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2025-10-17T15:59:35+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2025-10-17T15:59:35+09:00</dcterms:created>
      <description>こんばんわ&#13;&lt;br&gt;
今日の坐禅体験はいかがでしたか？&#13;&lt;br&gt;
坐禅を初めてした人は、どのくらいいますか？手をあげてみてください。&#13;&lt;br&gt;
ありがとうございます。初めての体験というのは、とても、緊張してしまうものです。坐禅は、ただ、座って瞑想するものですが、坐禅を始めたときは、気持ちがざわついていることに気が付きましたか？それが、時間がたつにつれ、静寂した空気が、気になります。そして、自分の呼吸に気が付いてきます。皆さんは、当たり前に呼吸をしていますよね。呼吸をしなければ、苦しくなって、死んでしまいます。&#13;&lt;br&gt;
坐禅は、そういったことに気が付くことを気付く、一つの手段です。静寂が進むと、少しの音でも耳に入ってきます。風の音とか、いつでもあることに気が付くことそれが、大切なのです。今日は、城東高校の先生方のご希望もあって、オリエンテーションに坐禅を取り入れていただきました。城東高校に入学して、これから、3年間たくさんの出会いがあることだと思います。人生には、出会いということが連続してあります。まずは、家族、そして、友人、恩師、恋人多くの出会いを繰り返していきます。生まれて、１５年間ですが、様々な人と出会って、今ここにいることだと思います。そのことに感謝いたしましょう。&#13;&lt;br&gt;
人だけでは、ありません。本、音楽、動物、海に空自分を取り巻くすべてが出会いの対象なのです。人を含め、自分たちを取り巻くすべての者が、ここしかないというタイミングで私たちを新たな世界へと誘ってくれています。人と出会って、人をしり、花と出会って花を知る。考えたら、出会いの数だけ、自分自身の発見にもつながっています。私たちは、本当の自分を知るためにあらゆる出会いを繰り返しているのかもしれません。禅の言葉に「啐啄同時」という教えがあります。「啐」とは、卵からひなが生まれてくるとき、ひなが卵の中から殻をつつくこと。「たく」は、親鳥が外から殻をつつくことです。禅宗の修行では、師匠と弟子の関係ですが、皆さんは、ご両親、先生、そして、友人、その他であってきた人たちのことです。その中で大切なことは、一方だけが強く主張しては、この「啐啄同時」なりえないということです。&#13;&lt;br&gt;
相手の立場に立って、相手と心を同じくしてく、確かに皆さんは、学校では、先生、家庭では、ご両親と、年上の人たちとでは、心を同じくしていくというより、教えてもらう立場かもしれませんが、お互いを信頼しあうこと、それもここを同じくしていくことです。友人関係も自分の主張ばかりしては、一方通行です。相手のことを思うには、自分の考えだけにとらわれることなく、相手に思いを向けることをする。これが、「思いやり」ということです。新しく高校生活が始まりました。これまで以上にたくさんの出会いがあると思います。その中で相手のすべてを見通すことは、できませんが、想像力をもつ、自分が行った言動、行動が、相手に伝わっただろうか？と考える。&#13;&lt;br&gt;
失敗することも大いにあります。それは、勉強ですから、考え続けることが大切だと思います。言葉についてもこれは、適切だ、不適切だと言葉を分けて、それをやめるのではなく、相手に思いやりを持って言葉を放つこと、また、逆に言われたことを寛容に受け止めることができると素晴らしいですね。&#13;&lt;br&gt;
最後に六波羅蜜（ろくはらみつ）という言葉があります。これは、我慢するということを教えている言葉です。&#13;&lt;br&gt;
我慢には、しなければならない我慢としてはいけない我慢があります。&#13;&lt;br&gt;
体の痛みや不具合は、我慢せず、早めに診療を受けましょう。&#13;&lt;br&gt;
他人からの攻撃や、嫌がらせについては、上手な避け方を考えるとか、誰かに相談して力を借りることも必要です。毎日の生活の中にある様々な苦しさ思うようにならないことについてですが、心配しすぎではいませんか？または、逃げては、いませんか？&#13;&lt;br&gt;
正しい目標があって、それに向かって進んでゆくとき、その道筋にあるむずかしさ、くるしさに負けないようにしたいものです。特に自分自身で選んだ道だったら、なんとしてでも我慢して続けてゆかなければなりません&#13;&lt;br&gt;
これからの高校生活、いろんなことがあると思いますが、楽しみながら、自分のやるべきことをしていくことに心がけ、頑張ってください。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>法話</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>お盆法話</title>
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      <pubDate>Sat, 17 Aug 2024 13:16:25 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2024-08-17T13:17:57+09:00</dcterms:modified>
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      <description>日は、お暑い中、お集まりいただきありがとうございます。&#13;&lt;br&gt;
７月から暑い日が続いています。&#13;&lt;br&gt;
荘嚴寺では、本堂以外冷房を入れていますので、暑いので、気分が悪くなったりした場合は、無理をせず、おっしゃってください。&#13;&lt;br&gt;
いつもは、説教師さんにお話をしていただきますが、今日は、僭越ですが、私がお話をさせていただきます。お時間は、２０分程を予定しています。よろしくお願いします。&#13;&lt;br&gt;
さて、まず、今日、皆様にお集まりしていただきましたのは、お盆法要です。お盆法要は、初盆を迎えられる方や、ご先祖様のお盆供養です。お盆とは、サンスクリット語で「盂蘭盆会」という言葉から来ています。昔、お釈迦様の弟子の一人に目連尊者（もくれんそんじゃ）という人がおりました。&#13;&lt;br&gt;
母親はお金に執着し他人に施しなどしない冷酷な人でした。&#13;&lt;br&gt;
自分の母親の死後、神通力を得た目連尊者が、「お母さんは今どうしているだろう。」と思い、その力で死後の世界をのぞいてみると、そこには、餓鬼界に落ちた母の姿が、&#13;&lt;br&gt;
神通力で 持ってきた食べ物を母親の口に運ぼうとするのですが、それは、たちまち火となって燃え上がってしまうのでした。何とか母親を救うことはできないものかとお釈迦様に尋ねると、&#13;&lt;br&gt;
「目連よ、お前の母は、生前、人に施すという事をしなかった。だから餓鬼道に落ちたのです。母の罪は非常に深く、お前一人の力では救う事はできない。お盆（８月１５日）に修行僧が長い厳しい修行を終えるこの日に、全ての修行僧の徳を讃え、清らかな食事を施しなさい。そうすれば修行僧たちは、御先祖や餓鬼で苦しんでいる者のために喜んで回向してくれるだろう。この功徳によってお前の母や餓鬼道で苦しむ多くの者は全て極楽に生まれ変わる事ができよう。」&#13;&lt;br&gt;
これを聞いた目連尊者は、さっそくお盆に供養の大法要を行いました。&#13;&lt;br&gt;
すると、そのお経の功徳によって、目連尊者の母親はついに天上界に生まれ変わる事ができたのです。これが盂蘭盆会のはじまりです。今日は、たくさんの和尚様方が法要に来てくださっています。亡き故人が天上界へ行けるよう、ご供養いたしましょう。&#13;&lt;br&gt;
さて、寿命についてのお話をさせていただきます。今、平均寿命が男性は、８１歳女性は、87歳だと言われていますが、これは、あくまでも平均したことで、それぞれの寿命は、異なります。NHKの深夜宅急便という深夜放送にて、作家の伊集院静さんが出演されていました。奥さんは、女優の夏目雅子さんで、白血病を患い肺炎で28歳でお亡くなりになりました。伊集院さんは、その死がどうしても受け入れられず、仕事もやる気をなくし、数年、暮らしていたそうです。「なぜ、きれいで、女優としての才能もあり、性格もよく、だれからも好かれていた雅子が死んでしまうんだ。こんな、理不尽なことがあるのかと毎日、悔やんでました。あるとき作家の先輩とこの胸の内を話した時、その方から、「それは、寿命だよ。君が悪いんじゃない。雅子さんが悪いんじゃない。寿命なんだよ」といわれ、その時、何か、つきものが取れたような感覚だった。」と話されていました。早くに亡くなる方もいれば、１００歳を超えるまで生きられる。それは、すべて、寿命だということです。&#13;&lt;br&gt;
寿命とは、ことほぐ命と書きます。ことほぐということは、声を出して喜ぶということです。まさしく、お祝いの言葉がことほぐです。なぜ死んだときに寿命というのかというと、死んで良かったねではなく、お父さん、お母さんのこどもでよかったね。あなたにであええてよかったねということの喜びが寿命という言葉になります。人生は、自分の命が無くなるまで、別れと出会いを繰り返して行きます。年齢を問わず、様々な人との出会い、それは、愛する者と離れなければならないというつらさでもあるのです。その言葉は、「愛別離苦」出会えば、別れなければならないという苦悩を私たちは、抱えて生きているのです。&#13;&lt;br&gt;
初盆を迎えた故人も様々な人生があり、その人生に終止符をうちました。その別れは、とても、つらく、寂しいものでしょう。「なぜ、死んでしまったの？ではなく、今まで、出会えてありがとう。私に命を授けてくださってありがとう。あなたが、生きている間に私たちにくれたたくさんの笑顔に感謝します。」という想いでこれからも前に進んでいきましょう。本日は、寿命のお話と、愛別離苦（別れていく苦しみ）についてお話をさせていただきました。暑い中、拝聴ありがとうございます。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>法話</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>文殊・弁財天まつり</title>
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      <pubDate>Sat, 04 Feb 2023 13:52:28 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2023-02-04T14:03:08+09:00</dcterms:modified>
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      <description>２月の第一日曜日は、毎年、文殊・弁財天まつりを大般若祈祷を開催しています。&#13;&lt;br&gt;
今年も２月３日から文殊・弁財天まつりがはじまりました。&#13;&lt;br&gt;
荘嚴寺の文殊菩薩様は、聖一国師様が唐の五大山より持ち帰ったといわれる仏像です。荘嚴寺には、文殊菩薩像と筆、剣、獅子、鏡があります。&#13;&lt;br&gt;
８００年ほど前に持ち帰ったといわれる仏様です。&#13;&lt;br&gt;
文殊菩薩は、知恵を授ける仏様。&#13;&lt;br&gt;
正式名称は文殊師利菩薩（もんじゅしりぼさつ）といいます。「三人よれば文殊の知恵」という格言があるように、知恵の神様として学業向上や合格祈願に有名な菩薩です。モデルとなった人物が存在し、古代インドにあるコーサラ国の首都・舎衛国（しゃえこく）のバラモン階級の者だったといわれています。仏教の経典を書物にまとめる作業などに関わったといわれていますよ。ただし、本来は学問などの知恵を司るのは虚空蔵菩薩であり、文殊菩薩は物事のあり方を正しく見極める力・判断力を意味する「智慧」を司っています。&#13;&lt;br&gt;
智慧明瞭、学業成就のご利益があるとされています。また、卯年の守り本尊です。卯年に生まれた人々の開運、厄除け、祈願成就を助けるといわれています。&#13;&lt;br&gt;
参拝者で祈願を申し込まれた方には、知恵の餅、福豆を授与しています。無くなり次第終了です。&#13;&lt;br&gt;
文殊まつりの準備は、１２月下旬１月初旬から始めます。&#13;&lt;br&gt;
大般若札、知恵のお餅セットの準備など、約２００セットをつくります。&#13;&lt;br&gt;
コロナ過で通常のお祭りはできませんでしたが、今年から少しずつ、以前のおまつりに戻っていくようにしています。&#13;&lt;br&gt;
通常が通常ではないここ数年です。&lt;br&gt;
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      <title>いわゆる四恩とは</title>
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      <pubDate>Sat, 04 Feb 2023 13:40:01 +0900</pubDate>
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      <description>いわゆる四恩とは「一には父母、二には国王、三には衆生、四には三宝なり。&#13;&lt;br&gt;
（教王経開題）&#13;&lt;br&gt;
大意&#13;&lt;br&gt;
四恩とは、両親への恩、生きとし生ける物への恩、仏法僧への恩である。&#13;&lt;br&gt;
解説&#13;&lt;br&gt;
この世のあらゆる存在は「縁」により成り立っています。考えてみてください。我々は様々ないのちのつながりの中で生きているのです。つまり、誰しもが自分一人で生きているわけではありません。　我々は人生の中で四つの大きな恩を受け入れていることをご存知ですか？一つ目は自分を産み育ててくれた両親への恩です。この恩は天よりも高く、大地より厚いと言われています。二つ目は我々が住んでいる国土への恩です。我々は大地や草木等の自然がなければ暮らすことが出来ません。三つ目は自分や外の人への恩です。生きとし生ける者は六道を輪廻すると言われています。六道とは（地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天界）です。その知らないうちに各々が親や師となって助け合っているのです。四つ目は我々を苦から救ってくれる「仏法僧」への恩です。仏とは仏さまの事であり、法とは仏さまが説いた教え、そして僧とは僧伽、つまり、仏様の教えを守り伝えていく人々です。&#13;&lt;br&gt;
三世の諸仏はこれらの四恩に報いることにとって、菩提を証明しました。我々も四恩に感謝し日々生活をしていきましょう。&lt;br&gt;
</description>
    </item>
    <item>
      <title>初観音</title>
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      <pubDate>Fri, 20 Jan 2023 11:12:28 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2023-01-20T15:44:48+09:00</dcterms:modified>
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      <description>令和5年1月17日　初観音が行われました。&#13;&lt;br&gt;
初観音がおわると、お寺の行事がはじまります。&#13;&lt;br&gt;
観音講の会員は、現在20名、元気に今年も過ごしましょう&#13;&lt;br&gt;
観音講は、1月・5月・9月の17日に行われます。&lt;br&gt;
</description>
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      <title>ご先祖様を守るのはあなた！ご先祖様は、どこにいる？</title>
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      <pubDate>Thu, 19 Jan 2023 16:25:34 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2023-01-18T16:26:57+09:00</dcterms:modified>
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      <description>今、ここにあるのは、脈々と受け継がれたご先祖様の血によって生かされています。&#13;&lt;br&gt;
家系図があって、５代前までのご先祖様のことがわかるという方は、いらっしゃると思います。父方、母方、祖父母、曾祖父母、ご先祖様といってもおじいさんやおばあさんの顔が浮かぶくらいでしょう。最近、「親は供養するけど、先祖は、しない」といったような事例もあり、驚くばかりですが、そのようなご時世なのかもしれません。&#13;&lt;br&gt;
では、ざっと、１０代さかのぼると何人いるのでしょう。両親で２人、祖父母で４人曾祖父母で８人、１６人，３２人，６４人ときて、１０代前は１０２４人です。２０代前までさかのぼると1,048,576人、この誰一人かけても、あなたは、ここにいないわけです。&#13;&lt;br&gt;
それぞれの時代の先祖は、その時代のなかで、必死に生きていました。そして、子を産み、育て、次へとつなげていったわけです。一般的に法事は、50回忌で終わりますが、鎌倉時代に生きていたご先祖様は、800回忌になります。考えるだけでも遠い話です。お寺では、歴代の住職は、百回忌の後も五十年ごと法事を行います。時代時代を一生懸命生きてくれた先祖のおかげで今が、あるのです。先祖が眠る荘嚴寺は、子孫がいる限り続いていきます。そして、いつかは、自分も先祖になります。身近な先祖は父母、祖父母だと思います。普段思い出すことのない先祖のことを思い出すとき、見えないけど、自分のことを守ってくれているそう思えるだけでも幸せです。ご先祖様を思うとき、それは、今の自分を見つめていることです。遠いご先祖様も生きているとき、遠い子孫を思い、子孫繁栄を願ったことでしょう。その想いを現代に生きる私たちも繋げていく。私の姿、形、性格など、遠い先祖様から受け継いで今、ここに生かされているのです。自分も遠い未来、子孫に思われるご先祖様になりたいものです。&lt;br&gt;
</description>
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      <title>宗繁和尚命日</title>
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      <pubDate>Wed, 18 Jan 2023 16:23:30 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2023-01-18T16:25:30+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2023-01-18T16:25:30+09:00</dcterms:created>
      <description>今日は、宗繁和尚の祥月命日です。昭和54年に亡くなられました。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>日誌</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>きょうよう きょういく ちょきん</title>
      <link>http://syogon-ji.asablo.jp/blog/2023/01/18/9556327</link>
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      <pubDate>Wed, 18 Jan 2023 16:21:29 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2023-01-18T16:22:12+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2023-01-18T16:22:12+09:00</dcterms:created>
      <description>2022年日本の平均寿命、女性は、87歳。男性は81歳という統計があり、人生100年時代に突入してきました。2人に1人は、90歳まで4人に1人が95歳まで生きるようになっています（厚生労働省発表）長生きをするといってもいろんな生き方があります。いまだかつてなく、長い老後を幸せな生活をするためにはどんなことをすればよろしいのでしょうか？健康的に生きるために意識したいことが「きょうよう・きょういく・ちょきん」です。「きょういく」と「きょうよう」は、以前にもお話したことがあると思いますが、今回はひとつ追加して。「きょうよう・きょういく・ちょきん」は「教養・教育・貯金」ではありません。確かに「貯金」というお金は、生きる上で必要ですが、健康のための者ではありません「きょうよう」とは「今日、する用事」のことで、「きょういく」とは「今日行くところ」そして「ちょきん」とは「筋力(きんりょく)を貯(た)めること」です。これからの時代は、おひとり様社会です。夫婦で過ごしているときはよろしいですが、どちらかが先に旅立った時、一人で生きていかなければいけなくなってきます。だからこそ「今日する用事」「今日行く所」があれば、外へ出かけるでしょう。毎日、外に出かけるのは、体力的にも無理かもしれません。だからこそ、自立して歩くための筋力が大事になります。「きょうよう・きょういく」の為の「ちょきん」です。休む前に「明日は、何をしようか」と考え、朝になると、その計画で体を動かすことを心掛けることです。家事・買い物・病院・お友達との食事等です。その中にお寺参りをお勧めします。お近くの方は、散歩のついでにお寺に行く。荘嚴寺までは、坂を上がって、階段を上がらないといけないのですが、ちょっと、しんどいなと思われたら、寺の下まででも大丈夫です。本堂を見上げて、お参りください。遠方の方は、バスや市営渡船を使って、お寺参りをするのもよいでしょう。筋力が衰え始めてしまってからでは遅いです。子供さんやお孫さんを連れてお参りされてもいいかもしれません。「おばあちゃん（お母さん）とおまいりに行った」という思い出が、子供さんやお孫さんの中に記憶として残っていくのではないかと思うのです。という私も今年で69歳になります。老境(ろうきょう)の自覚はありませんが、視力も体力、記憶力も低下気味です。老いは確実に進んでいます。少しでも、老いを先延ばしにするには「きょうよう・きょういく・ちょきん」この3つの言葉で毎日の張り合いがある生活を実践していきたいものです。&lt;br&gt;
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    </item>
    <item>
      <title>信心を養う</title>
      <link>http://syogon-ji.asablo.jp/blog/2023/01/18/9556326</link>
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      <pubDate>Wed, 18 Jan 2023 16:18:07 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2023-01-18T16:18:40+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2023-01-18T16:18:40+09:00</dcterms:created>
      <description>見えない世界のことや神仏のことを信じる。あるいは、大切に思うことで、心の眼が更に深くなり、美しい世界が見えてくる。&#13;&lt;br&gt;
禅では、心の内に仏心（ぶっしん）があると教えている、その心の内にある仏心の眼で世の中を見たとき、苦しみの多い世界が、慈悲があふれる美しい世界に見えてくる。神仏の世界を見、神仏のみ心を知り、それを言葉に現して伝える。これが世に出た偉大なる預言者でした。未来を予言するのではなく、神仏の言葉を預かった人々です。そんな人々の言葉を信じ、いただいて、その言葉の中に神仏のみ心を知り、その心の目でこの世界を見ていくのです。そうすると、苦難の中にも意味があり、守られている自分自身を知ることが出来る。信仰のない人が苦難に遭わば、「なぜ私ばかり」「あの人が悪いからだ」「この人がいけないからだ」と自分の運命を恨むことになる。恨みは、心の、窓を歪め、くもらせます。ですから、真実の世界は、決して見えてきません。昔の人は、こう言っています。「沙石集（しゃせきしゅう）」という書物に出てくる言葉があります。鎌倉時代に活躍した臨済宗のお坊さんで無住(むじゅう)という和尚様です。【仏や神に仕えて危難(きなん)（危うい目にあうことにも）災難（不意に起こる災い）にも見舞われた時に神や仏を恨んではならない。「どういう方便だろうが、また自らの業力（ごうりき）によるものだろうか。仏の力も業力には、勝てないから、佛の方便もどうにもできないのだろう自分の真の信心をもたず、修行がたりないのだろうか。】&#13;&lt;br&gt;
と考え、我が身を戒め、我が心を励まさなければならない。&#13;&lt;br&gt;
訳(わけ)もなく他人を嫉み(そねみ)、仏法を疑い、仏を恨んではならないと説いています。&#13;&lt;br&gt;
訳すると「苦難にあった時には、何か意味があるのだろうか。私に何を神仏は気づかせようとしているのか、そう思いなさい。前世からの心の傾向性が苦難を呼び寄せているかもしれないから、間違った頑（かたく）な心を柔らかにして、&#13;&lt;br&gt;
信心を深め、神仏を恨むことなく、佛の教えによって、心をただし、苦難を乗り越えていきなさい。決して、神仏を恨んではなりません」ということになると思います。こんな教えをいただいて、心を養っていくこと、心の眼も豊かなものが見えるようになります。苦難にも意味を見出し、幸せであれば、神仏への謙虚で感謝の想いを深めていくことができます。&#13;&lt;br&gt;
神仏の世界は、慈悲の世界ですから、その世界は、きっと、宝石がキラキラと輝くような美しい世界でしょう。それは、私たちの内にある佛の心と見えない世界に確かにある佛の世界が感応してあって、そう見えます。&#13;&lt;br&gt;
信心の力&#13;&lt;br&gt;
神や仏を信じ　大切にすると&#13;&lt;br&gt;
世界がきらきら光って見えてくる&#13;&lt;br&gt;
ご先祖様がありがたく見え、手を合わすことが美しい姿に見え&#13;&lt;br&gt;
祈りの姿が尊く見えてくる。&#13;&lt;br&gt;
苦難に意味を見出し、くじけない勇気が出てくる。&#13;&lt;br&gt;
幸せや成功を周りの人のおかげであると思えてくる&#13;&lt;br&gt;
信心を深め　心の眼を養っていくことだ&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>法話</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>見える縁と見えない縁の導き</title>
      <link>http://syogon-ji.asablo.jp/blog/2023/01/13/9554985</link>
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      <pubDate>Fri, 13 Jan 2023 15:43:39 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2023-01-13T15:44:15+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2023-01-13T15:44:15+09:00</dcterms:created>
      <description>&#13;&lt;br&gt;
今日、坐禅会のお集まりの方は、座禅に興味があった、坐禅を体験してみよう、あるいは、月一回「惰性」で来ている方、いろんな方が座禅ということで「荘厳寺」にお集まりになっています。これを仏教では「縁」と言います。「因縁」とも言います。&#13;&lt;br&gt;
「なかなか、いい縁に巡り会えない」&#13;&lt;br&gt;
「いい縁をいただいて、ありがたかった」&#13;&lt;br&gt;
「怖い人に因縁をつけられた」&#13;&lt;br&gt;
「何か悪い因縁でもついているかな」等、日常の中に「いい縁」「悪い縁」と「良い」と「悪」の２つに分けて使うことが多いと思います。&#13;&lt;br&gt;
しかし、もともとの仏教語では、そのような意味は、ありません。そもそも、因縁に「良い」も「悪い」もないのです。&#13;&lt;br&gt;
現代語で「因縁」をわかりやすく言い換えれば「導き」ということになります。今日、ここにお集まりの方は、「坐禅」という導きがあったからです。これが、今日のご縁です。出会いです。このご縁には「目に見える導き」と「見えない導き」があります。見える導きは、実際に見たことのある方です。話をしたことのある方です。これに対して「見えない導き」は今日ここであった方のご両親、兄弟、近所の方、直接話をしたことのない方で、いろいろ話をしていると話題に出てくる方が、「見えない導き」です。導きの理由は、人それぞれです。しかし、この導きを結ぶことができたので、みなさんがここに集まることができたのだと思います。「しばらくぶりに参加しましたね」「お元気でしたか？」とこんな会話ができるのも縁と縁との出会いのおかげです。私たちは、こんな無限で無数の導きの世界の中で生きています。これが仏教の説く、不思議な縁の世界です。「導き」という「縁」の働きの中で生かされています。人間だけでは、ありません。動物も植物も同じすべてがこの縁の中にあります。私たちが動いているのではなく、縁だけが動いています。動かないところへ動かしてくれるのが縁です。&#13;&lt;br&gt;
当然、縁には、結ばれる縁と結ばれない縁もあります。結ばれたと思っても切れることもあります。切ったほうが、いい縁もあるかもしれません。&#13;&lt;br&gt;
縁は無数にありますが、結ばれる縁にも限りがあります。従って、自分の目の前にある縁を一つ一つ大切にしていく必要があります。この姿勢が仏教の生き方です。縁を活かすということです。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>法話</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>ぬくもりを感じる力</title>
      <link>http://syogon-ji.asablo.jp/blog/2023/01/12/9554774</link>
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      <pubDate>Thu, 12 Jan 2023 16:16:07 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2023-01-12T16:16:34+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2023-01-12T16:16:34+09:00</dcterms:created>
      <description>[ぬくもり]を感じ取る力&#13;&lt;br&gt;
「ぬくもり」は人の心の内にあるやさしさや、思いやり、慈しみ、細やかな気遣いなど、その「ぬくもり」をかんじた時、私たちは幸せを思い、心に清々しさを思う。&#13;&lt;br&gt;
　手紙やハガキはパソコンなどを使った活字が多いので手書きの文章のほうが温かみを感じ取ることができる。&#13;&lt;br&gt;
この「ぬくもり」はどんなものにも宿る力がある。　　&#13;&lt;br&gt;
　　どんな粗末なプレゼントでも、そこに相手を思う「ぬくもり」を込めると、そのプレゼントがとても大切な宝物になる。人のぬくもりばかりでなく、人の思いが染み込んだ「物」を介して、お互いの思いを感じとつっている。物ばかりでなく、優しい言葉にも、笑顔の中にも、あるいは互いが交わした握手の手の中にも、自分の「ぬくもり」という思いを宿すと、その思いが相手に通じていき、その「ぬくもり」を感じとっていく力を育てていくと、相手を思う気持ちが自ずと養われていくような気がします。&#13;&lt;br&gt;
　お寺さんに行くと、玄関の石畳に水が打ってあります。この水を打つというのは、大切なお客様が来る時の最高のおもてなしと言えます。清浄にするわけです。そこにお寺さんの「ぬくもり」を感じ、水を打った石畳にも、ぬくもりの思いが宿る。玄関には赤い毛氈がひいていて、そこのお寺さんが丁寧にお頭を下げて迎えてくれる。赤い毛氈もお客様を迎えるおもてなしなのです。座敷に通されると、床の間に禅僧の書いた軸が掛けてあり、その横には花が活けられている。座布団の上に座るとお菓子と茶托に蓋付のお茶碗でお茶を出してくれる、そんな一つひとつの行為の中に「ぬくもり」を感じながら、お寺さんの接待を受けたことがあります。&#13;&lt;br&gt;
　食事の中にも「ぬくもり」を感じます。食卓に出されるものは何でも美味しくいただきますがコンビニのお弁当ももちろん美味しいですが、家で作ってくれる食事は不思議と飽きが来ません。布施は無償のおもいが大切なのですが、無償の思いで作った料理が、またひとを喜ばせる。きっと作ったひとの「ぬくもり」がその料理のなかに入っていて、それを感じ取りながら、いただくのも美味しいと思います。&#13;&lt;br&gt;
　「ぬくもり」を感じ取る為には&#13;&lt;br&gt;
１、「ぬくもりの」世界があることを知って、その「ぬくもり」に気づくこと&#13;&lt;br&gt;
２、この「ぬくもり」の心を自分自身、大切にして生きていこうと思うこと&#13;&lt;br&gt;
　心を込めると言う言葉があるように、自分の仕事にも、言葉にも、笑顔にも、優しい思いや良い思いを添える努力をしていくこと&#13;&lt;br&gt;
　「ぬくもり」の心を育てていった人が「ぬくもり」を相手に与えることができ、また相手の「ぬくもり」を感じ取って感謝出来る人になれると思う。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>法話</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>正月のうんちく</title>
      <link>http://syogon-ji.asablo.jp/blog/2023/01/12/9554773</link>
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      <pubDate>Thu, 12 Jan 2023 16:14:12 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2023-01-12T16:15:02+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2023-01-12T16:15:02+09:00</dcterms:created>
      <description>　　お正月の「うんちく」&#13;&lt;br&gt;
●門松　&#13;&lt;br&gt;
家の門の前などに立てられる一対の松や竹のことで、松飾りとも言い、木のこずえに神が宿ると考えられたことから門松は年神様を家に迎え入れるための、依代「よりしろ。神の霊が寄り付くこと」という意味合いで、神様の目印になるように門前に飾る。&#13;&lt;br&gt;
　門松の竹の切口には斜めに切った「そぎ」と真横に切った「寸胴」がある。「そぎ」は徳川家康が始めたといわれています。　家康の唯一の負け戦で知られる「三方が原の戦い」の最中に、新年を迎えてた家康のもとに、武田信玄から「文：ふみ」が届いた。&#13;&lt;br&gt;
その「文」には「松枯れて　竹たぐいなき　あしたかな」と書かれていた。内容は松は家康「松平」の事でこれが滅んで、竹「武田」が安泰だと。もちろん家康は怒り心頭で「松枯れず　武田首無き　あしたかな」と先に送られてきた「文」を利用して、信玄に送り返したそうです。松は枯れずに武田の首は、飛ぶという意味です。それでも怒りは治まらず近くにあった門松の竹を信玄に見立てて、「そぎ」落とした。家康が天下を取り、諸大名が竹をそぎ落としたのを、真似て全国に広がった。&#13;&lt;br&gt;
　また、門松を節を含めて、斜めに切ると「切口が笑顔に見える」ため「笑う門には福来る」という意味もある。&#13;&lt;br&gt;
　●松　竹　梅&#13;&lt;br&gt;
松　一年中葉を落とさない松は永遠の命を象徴している。「神様が&#13;&lt;br&gt;
　　宿る」とされている。&#13;&lt;br&gt;
竹　２・３年で成長する竹は、真っすぐに育つ様が生命力を表している。嵐や強風にも負けない姿がとても印象的である。&#13;&lt;br&gt;
梅　新春に咲き一年の始まりを意味している梅は、実を宿すことから縁起の良いものとされている。&#13;&lt;br&gt;
松　竹　梅　の順番には松が平安時代。竹は室町時代。梅は江戸時代とその時代事に、縁起物になったことからである。&#13;&lt;br&gt;
●正月飾りの飾る時期&#13;&lt;br&gt;
正月飾りの飾る時期は一般的12月13日頃から30日までだが29日は９は「苦」に通じ縁起が悪いとされる。大晦日31日に飾ることは、「一夜飾り」と言われており、新年においでいただく年神様に対し、礼に欠けるとされるので30日までに飾り終えること&#13;&lt;br&gt;
●正月飾りを外す日&#13;&lt;br&gt;
地域によってまちまちで、年神様が家に滞在している１月７日の松の内まで飾り、その後、はずす、鏡もちについては、正月11日鏡開きの日まで飾る。&#13;&lt;br&gt;
●しめ縄&#13;&lt;br&gt;
「しめ縄」とは、もともと神域や聖域を表すもの結界の一種とした神道の神祭具、元々は、神社と同様、家にもしめ縄を張り巡らせていたのを簡略化したもの。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
●お年玉&#13;&lt;br&gt;
現在のお年玉は、お金が主流ですが、元々は、お餅でした。単なるお餅ではなく「魂」を象徴するもので単なるお餅ではなく。「魂」を象徴するもので生きる力、気力だと思って昔は、年の初めに年神様から新年の魂をわけていただく、つまり、毎年、一年分の力を授かると考えられた。新年の神様である「年神様」を家に迎えて、もてなし、見送るための行事です。年神様は、新しい年の幸福や恵みとともに私たちに魂をわけてくださると考えられている。&#13;&lt;br&gt;
●鏡餅　&#13;&lt;br&gt;
　年神様の依り代なので、家にいらした年神様は、鏡餅に依りつきます。すると鏡餅には年神様の「御魂」（みたま）が宿ります。この鏡餅の餅玉が年神様の「御霊」（みたま）であり、その年の魂となる「年魂」です。そして、年魂を表す餅玉を家長が家族に「御年魂」→「お年玉」として分け与えられました。これが、お年玉のルーツ。玉には、魂という意味がある。この餅玉を食べるための料理が「お雑煮」で餅を食べることで体を魂を取り込むことです。お雑煮には、必ずもちが入っており、お雑煮を食べないと正月を迎えた気がしないという感覚も間違っていない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
昔から「餅」は神様に捧げる神聖な食べ物とされている。&#13;&lt;br&gt;
　お祝い事や祭りには欠かせないものである。鏡餅という丸い形&#13;&lt;br&gt;
　は「人の魂を模している。」神事の鏡と同じことから、鏡餅と&#13;&lt;br&gt;
　呼ばれています。&#13;&lt;br&gt;
　「三種の神器」は鏡は「餅」に、オガタマに見立てたものが&#13;&lt;br&gt;
　「橙」に、剣には串柿を見立ている。&#13;&lt;br&gt;
　大　小二つ重ねた意味は「陰・陽　　月・日」を表して、縁&#13;&lt;br&gt;
　が良いとされる。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>法話</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>いのちは時間</title>
      <link>http://syogon-ji.asablo.jp/blog/2023/01/12/9554770</link>
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      <pubDate>Thu, 12 Jan 2023 15:52:10 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2023-01-12T15:54:15+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2023-01-12T15:54:15+09:00</dcterms:created>
      <description>禅語に「生死事大　光陰可惜　無常迅速　時不待人」とあります。&#13;&lt;br&gt;
生死は事大、あっという間に時間は過ぎ去っていく、全てのことは、移ろいゆく、時は、人を待ってくれない。そのような意味です。&#13;&lt;br&gt;
私は、今年で60歳を迎えます。この頃は、一日一日が瞬(またた)く間に過ぎていきます。ボヤッとしていると、いつの間にか人生の終焉を迎えてしまいそうです。人生時間というのをご存知でしょうか？&#13;&lt;br&gt;
人生を一日の24時間であらわし、長い人生を短い時間に置き換える考え方で自分の年を３で割ると17時55分です。そう考えてみますと自分の残された人生の時間をどう使っていこうかと真剣に考えます。&#13;&lt;br&gt;
聖路加国際病院の日野原重明先生（百歳）という方がおられます。先生は全国の子供たちに命の大切さを教える「いのちの授業」をされています。その授業では、実際に聴診器を使って、お友だち同士で心臓の鼓動の音を確認させています。その後に先生が生徒たちに問いかけます。「皆さんのいのちはどこにあるとおもいますか？」子供たちは、みんなそろって「心臓がいのちです」と答えます。&#13;&lt;br&gt;
「心臓というのは、命を保つために血液を全身に送り出すポンプに過ぎない。心臓がいのちそのものではありませんよ。」と先生は答えます。&#13;&lt;br&gt;
では、いのちの実態とは、何でしょうか？目に見えない、形がない、いのちとは、自分の使える時間のことだと先生はおっしゃっています。&#13;&lt;br&gt;
なるほど、そう考えてみれば、私たちは、オギャーと生まれてから一刻一刻と死に向かって生きています。一日生きれば、一日死に近づいているということです。まさに「生死は、事大。光陰（時間）惜しむべし、無常は、迅速。時、人は待たず」いのちは、時間だと言えます。その時間は、皆に平等に与えられています。その時間をどう使うかは私自身です。まだまだと思っている間に時は過ぎ去っていきます。時間に使われるのか、自分が時間を使っているのか、過ぎ去る日々を前に思いを巡らせます。&#13;&lt;br&gt;
今、このときを大切に&lt;br&gt;
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    </item>
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